大仙市観光文化スポーツ部スポーツ振興課課長 鈴木貴博 |
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●劇的な幕切れ
令和4年7月18日、時計は午後3時40分を回っていた。
第4回全国500歳野球大会決勝戦最終回。第3回大会を制覇し、2大会連続の優勝を目指す岩手県「IOFC」と、第2回優勝チームであり、第41回全県大会の王者「牛島クラブ」の試合は、2対2の同点のまま、7回の裏IOFCの攻撃。終盤に入り、試合を優位に進めているのは牛島クラブであったが、2死ランナー無しで誰もが延長タイ・ブレークと思っていた時、IOFC新田選手の放った打球は外野のフェンスを越え、劇的なサヨナラホームランで幕を閉じた・・・。
回数を重ねるごとに県外からの参加チームも増え、特に今年はコロナウイルス感染拡大の影響により3年ぶりの開催となったが、全国の「野球に燃える親父たち」の情熱は、開催中であった全国高校野球選手権秋田大会に負けず劣らず、プレーヤーは死力を尽くし、策士(監督)同士の駆け引きの応酬は見応えがあり、出場チームのレベルアップを実感した大会であった。
●運営とプレーヤーの二刀流
私は、大仙市職員として500歳野球大会の企画、運営に携わっている。
平成24年の人事異動でスポーツ振興課に配属され、スポーツに携わった仕事ができると独り喜んだことを覚えている。小学校4年生から野球をはじめ、中学、高校と野球を続け、社会人になってからも硬式のクラブチームや草野球、職場の野球を続けてきた私にとって、仕事で500歳野球に携わることができるのは、一野球人として幸せなことだったと思う。プレーヤーとしては常に底辺であり、秋田工業高校では3年の夏にベンチに入ることすらできなかった自分であるが、その後の野球人生では仲間に恵まれ、満足のいく野球時間を過ごすことができた。社会人野球、全県おはよう野球、マスターズ選手権、スポ少のコーチや審判員、そして現在は地元協和の500歳野球チームにお世話になっており、「底辺の野球小僧レール」に乗らせていただいている。
多くの500歳野球プレーヤーの皆さんも同じかもしれないが、「野球をやっていなかったらどんな中年になっていただろう?」という自問に明確な答えは出せない。
今は500歳野球の駆け出しプレーヤーとして、先輩方の意識の高さ、影の努力とその年齢からは信じがたい実力にただただリスペクトするばかりであり、楽しみながらも野球人生においては最も真剣に取り組んでいるような気がする。
●「500歳野球について。」
この独特な野球ルールは秋田県少年野球発祥の地、旧神岡町で昭和53年に始まった。
コンセプトは、年齢を重ね実戦に参加する機会が少なくなったプレーヤー達が、もう一度主力選手として試合に出場するために、50歳以上の年齢制限を設定し、学童野球のフィールドサイズで一度交代しても再び試合に出場することができる等、中高齢者にとって生涯を通して野球を楽しめることができるルールを取り入れている。
若い人では49歳(大会開催年度に50歳になること)、最年長出場記録では86歳であり、親子で出場しているケースも珍しくない。
平成26年、第36回大会後に主催者である大仙市と秋田魁新報社が3年後の全国大会の開催を目標に実行委員会内にプロジェクトチームを設置した。
当時、500歳野球は、全国でも様々なメディアから注目されるようになっており、同年には「厚生労働大臣杯」に加え「文部科学大臣杯」が、平成27年には「内閣総理大臣杯」が本大会へご恵贈され、多くの関係者のお陰で大会の権威が構築され、全国大会開催に向けて大きな機運が高まっていた。ゆくゆくは「全国47都道府県からの代表チームによる大会開催」を念頭に、普及推進活動のため全国を行脚した。