私は秋田県野球協会審判部に所属し12年目のシーズンになります。審判員を志したきっかけは、我が子が当時所属していた団体での帯同審判となり審判員不足を解消しチームに協力することでした。
その団体の審判員になる為の講習会が2011年3月12日に宮城県で行われる予定でした。しかし、前日の3月11日多くの方が犠牲となった東日本大震災が発生し当然、講習会も中止となりました。
一度は目指した審判員の道が閉ざされた瞬間でもありました。それでも審判員になりたいという思いが消えない中、何気に新聞を読んでいると秋田県野球協会二種公認審判資格審査会の記事が目に留まり即、受講を決意しました。
審査会を終え1週間後には合格通知を頂き、翌2012年から活動がスタートしました。初めは右も左も分からない状況のなか先輩審判員の方々より丁寧なご指導をいただき学童野球の練習試合を皮切りに少年野球、高校野球、大学野球、一般軟式そして社会人野球等様々なカテゴリーにおける試合でのジャッジを経験させて頂きました。
これまで活動してきた中での失敗もたくさん経験しました。
忘れもしない4年目のシーズン、高校野球リーグ戦において約10分間試合が中断したことです。原因は我々審判員が規則の適用を誤り更にはアウトカウントまでも間違い再開したことで大きなトラブルとなったことは今でも忘れません。スタンドにいる観客の方々からも大きな声でお叱りを受け、時間の経過と共に審判員だけが変に目立ってしまい僅か10分間が1時間以上にも感じ、この場から逃げ出したいと本気で思いました。
この失敗で審判員として大事なことや、自らに不足している部分は何かを考える貴重な機会にも繋がりました。
しかし審判員を継続できた理由には、試合中におけるトラブル等で我々が変に目立つことが無く、最後まで選手が主役となって無事試合を終えることが出来た時の達成感。もうひとつは幼い頃から見ていた身近な選手が中学、高校、大学、社会人となりプレーヤーとしては勿論、人間的にも成長した姿を同じグラウンドで目の当たりにした時はぐっと来るものがあり、これらは何ものにも代え難いことでありその魅力にどんどん引き込まれていきました。
しかし、当然のことながら我々のジャッジには責任が伴います。
それを果たす為には自己研鑽に努めることがとても重要です。試合では、一つの判定により流れが変わったり、時には勝敗の行方をも左右してしまうかもしれないという現実が付き纏います。
試合開始に「プレイ!」を宣告した瞬間、自らのスイッチをオンにし、一投一打に集中します。
終了後は試合のポイントを振り返りながら徐々にスイッチをオフに切替ていくという繰り返しになります。日常、我々が何かに取り組み終えた時に顧みるというごく自然な感覚と似ていますが、そこに成長して行く為のヒントがあるように感じます。
私が審判員となった約10年前は60名から70名の新たな審判員が誕生しておりました。しかし、ここ数年は新型コロナウイルス感染症拡大の影響等により減少傾向にあります。
グラウンドにいる審判員が、選手と共に清々しくキビキビと動き正確なジャッジをすることで良い試合に繋がり、我々にとっても大きな自信となります。更には、その姿をみて新たに審判員を目指す方々のきっかけとなればこのうえない喜びです。
いよいよ待望の野球シーズンが到来します。選手と同じグラウンドに立ちジャッジできる喜びと家族や仲間への感謝を胸に、永くジャッジしていきたいと思います。