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20世紀の思い出
野球部あるある
秋田工業高校


      

・汽車通は汽車時間に合わせて帰ることができるが、チャリ通は練習終了後にグラウンド整備や用具の片付け、スパイク磨きなどをしなければならないため、汽車通とチャリ通は必ずけんかになる。

・グラウンド脇を通る電車によって、おおよその時間がわかる。

・監督が不在のときは、練習中でも電車が通過するたびに全力で手を振る部員が大勢いた。

・練習を休みたい先輩たちから、下級生に「反乱」を起こせという命令をされ、1年生は何の理由もないのに練習を「ボイコット」する。

・「ボイコット」をした後は、監督からこっぴどく怒られる。

・室内練習場がなかったので、グラウンドで練習ができないときには千秋公園までランニング。公園内での階段おんぶや坂道ダッシュが定番。

・公園内に人がたくさんいると、監督からの指示でみんなの前で「自己紹介」や「自分の目標」などを大声で言わされる。

・監督の機嫌を損ねるプレーをすると、いきなり「ならべ!!」と怒鳴られて、一塁線上からレフトフェンスまで全力疾走の通称「ダービー」を部員全員でやらされる。

・1年生部員が原因で「ダービー」をやらされると、練習後に3年生から2年生が厳しく指導され、2年生から1年生へ厳罰が科せられる。

・厳罰の内容は「ウサギ跳びダービー」や「アヒルダービー」に加え、「可愛がり」もあった。

・夏でも練習中に水を飲むことが「厳禁」だったので、コーラの1リットル瓶に水を入れ、草むらや土の中に隠して、ファウルボールを探すふりをしながらぬるい「隠し水」を飲んだ。

・「隠し水」は究極の精神状態だったから飲めたが、今、それを飲めといわれても絶対に飲めない(笑)。

・「隠し水」をして監督に見つかった先輩が長時間にわたり監督から「愛の鉄拳」を受けていた。

・練習時、グラウンドから監督の車が見えると、最初に発見した部員は監督が来た合図として「クスー クスー」と言ってみんなに知らせていた。

・練習を休むことは「御法度」だったため、具合が悪くて学校を休んでも練習には参加しなければならなかった。(今ではありえないね)。

・先輩に対する「挨拶」は、どこの場所でも先輩を見つけたら大声で「ザース」と言わなければならない。

・秋田駅や街中で先輩に会ったときでも、突然「ザース」と叫ぶため、びっくりした周囲の人から叱られる。

・合宿中、毎日のように部長と監督が酔っ払ってけんかをしていたが、次の日になると仲良くなっている。

・合宿時、ご飯やおかずは絶対に残してはいけなかったため、1年生は味わう余裕もなく口の中に詰め込んで食べきる。とてもつらかった。

・合宿時、監督部屋の入り口に置いてあるスリッパの並べ方が少しでも乱れていたら、キャプテンが呼ばれ「愛の鉄拳」を受ける羽目になる。

・ボールに汚れがついていれば、授業中に消しゴムで真っ白になるまで磨く。野球部員の机の下には消しゴムのカスがいっぱい落ちている。

・南秋地区(八郎潟、五城目)の部員が、汽車時間で先に帰らなければならないときは、上級生に対して「汽車時間だってがに、先に帰らせでもらっていいっすか?」と、言わされる。この言葉が妙に先輩たちにウケていた。

・日本海中部地震が発生した日、電車が全線不通になり、昭和町の部員は線路を歩いて自宅へ帰り、五城目や八郎潟の部員は自転車で自宅へ帰った。

・震災当日と次の日の練習が休みになったが、突然の休みだったので何をして遊んでいいのかわからないまま2日間が過ぎてしまった(笑)。

・とにかく先輩が後輩に「あだ名」をつけるのが好きで、長州力に似ているから「長州」だったり、映画のE.T.に似ているから「E.T.」だったり、坂上二郎さんに似ているから「二郎さん」だったり、「カンボ(カンボジアの略)」「ネズミ」「あばれはっちゃく」などなど、いろんな「あだ名」があった。

・秋田北高生から秋田高校は「丘の上の王子様」、秋田工業は「川の向こうの金砂虫」と言われていた。残念。


※現在はこのような事はありません!



監修:昭和60年代野球部OB有志一同