― 似て非なる言葉 ―
「個人優先」や「個性尊重」が、吹聴されるようになって久しい。
人間一人ひとりが姿も考えも違い、それぞれ社会に必要とされて生まれているのだから、この言葉が重んじられて当然のこと。
ところが近時、この言葉の真意を誤解しているのか、自己中心的行動をとる人が多くなっているように思われる。
例えば、子どもの通う学校に理不尽な要求や抗議を行うモンスターペアレント。
マスコミで報じられた具体的な例をあげると、「家で掃除をさせていないから、学校でもさせるな」「アルバム写真でなぜ、ウチの子が端っこか」「ピアノの技能はウチの子が一番なのに、合唱の伴奏が別の子なのはおかしい」など。
身勝手に振る舞うことを、“個性”とでも思っているのだろうか。
私の住む地域の小学生のスポーツクラブ(野球)でも、それと似たような例があったと聞いたことがある。
練習後、子どもたち全員で、グラウンド整備をしているとき雨が降ってきた。
即時にあるお母さんが傘を持ってグラウンドに入り、自分の子どもに傘をさしながらついて回った。
見かねた監督が「みんな同じなのだから、お母さんグラウンドから出るように」と注意したら、「この子が濡れて風邪をひいたらどうするんですか」と反発したという。
「大事にする」と「過保護にする」は違う。
「褒める」と「甘やかす」、「自由伸び伸び」と「けじめのない生活」、それに「放任する」と「信頼する」など、 いずれも似て非なるもの。
心も体も、苦難困難に耐えてこそ強くなれるのだ。
人間は元来、「自己本位」に行動するように生まれている。
それをコントロールする「しつけ」や「教育」をしなければ、不適応行動をとるようになるのは当然だ。
世の中、個人では生きていけない。
違う者同士が互いの存在を認め、互いに協力し合うという気持ちがなければ、集団生活は成り立たないだろう。
ノースアジア大名誉教授 伊 藤 護 朗
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