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平成18(2006)年9月5日午後8時36分頃、「彼」の投げた最後の1球が右翼手のグラブに収まった瞬間、ベンチからマウンドを目指して飛び出した選手、そしてダイヤモンドからは一目散に「彼」を目掛けて走り寄るナイン。その後はお祭り騒ぎ、歓喜の輪がそこに広がった。

場所は東京ドーム。「彼」の名は野田正義。第77回都市対抗野球大会において、東北勢としては初めて優勝を飾ったTDK(にかほ市代表)の投手陣の軸として活躍した男だ。

マウンド上では一人、また一人とナインが野田に覆いかぶさり、野田は一番下になってうごめいていた。「優勝した、という実感よりも『なんだ、この状態は』」という、初めての経験に驚いていたという。

この大会、野田は全5試合、すべてに登板した。簡単に振り返って見ると初戦、伯和ビクトリーズは9回完封。2回戦のJR東海は先発して6回2失点。準々決勝のホンダ戦は3分2イニングの救援で無失点。準決勝の日本通運戦は先発して2回3分2イニング5失点。そして決勝の日産自動車戦では先発、3失点の完投で「胴上げ投手」に輝いた。特筆されるのが準決勝は2イニングでKOされたにもかかわらず、翌日、当時の船木千代美監督に「(前日は)長いイニングを投げていなかった」との理由で決勝でも先発を託された。そしてその期待に応え、大会のMVPに当たる橋戸賞を獲得した。

そんな実績も申し分のない選手だった野田が、今秋、投手コーチとして7年ぶりにチームに帰ってきた。

小学校、そして中学校時代の野田はいろんなポジションを経験した。内野手、捕手。高校に入学してからは打撃を評価され、今度は外野手として甲子園を目指していた。3年時には投手として甲子園を目指したものの、8強で敗退。夢は叶わなかった。

高校時代はほぼ無名に近い選手だった野田だったが、なぜ秋田へ、そして何を求めて秋田の地を踏んだのだろうか。 
「将来も大好きな野球を続けていきたい」という希望を抱いていたのだが、実は、大学受験に失敗したのがその理由。そんな折、知人を通じてTDKを紹介され平成9(1997)年秋、TDKのセレクションを受けて採用が決まったのが、秋田とのつながりのスタートラインだ。

東京から秋田での生活に戸惑いはなかったのだろうか、と水を向けると「当時の仁賀保のイメージとしては「えっ?」ではなく、母が岩手・遠野出身なんで田舎のイメージができていた。のどかな土地柄だな」という印象を持ったという。そして、そんなイメージよりもとにかく「野球をやりたかった」いう野田は当初、外野手として採用されたと思い、新品の外野手用のグラブとバットを持参した。しかしながら、肩の強さを買われ入部と同時に、投手への転向を余儀なくされた。「当時の首脳陣から言われたが、素直に受け入れた」と振り返る。

入部してからの野田は1年目から東京ドームを経験するなど、多くの登板する機会を与えてもらった。

3~4年目までの投球スタイルは「スピード重視」。が、当時は金属バットの全盛期。「投手力で試合に勝つ、というよりも打撃力で相手チームを粉砕する時代だった」というように、直球1本ではもたなかった。しかも、当時の野田は「上(プロ)を目指していた分、チームよりもスカウトへのアピールの方が重要」という考えが強かった。

「ブルペンで隣の仁部智(本荘高―東北学院―TDK ―広島)のキレのあるボールを見ていると、自分の真っすぐとは質が違う」と、冷静に自分を見詰め直した。そして達した結論は「コントロール」と「多彩な変化球」で打者を打ち取る、という方向にモデルチェンジをした。

「多彩な変化球」とは書いたが、この表現は、実は当時の新聞報道で書かれた言葉である。当の野田自身「多彩な変化球と書かれて、大変助かった」と振り返る。なぜならば、相手打者からすれば、野田が何種類の変化球を持っているのか、何を投げてくるのか疑心暗鬼になるはず。おかげで打者の迷いを誘うことができたという。「実際は真っすぐのほか、カーブとスプリット、真っスラぐらいしかなかったんですが」と苦笑いする。

高校野球からアマチュア野球の最高峰に君臨する社会人に飛び込んできた野田だったが、いきなり洗礼を浴びる「出来事」があった。入社1年目のオープン戦での練習試合で相手は関東の雄・川崎製鉄千葉だった。本人に言わせれば「まさにセンセーショナルな事件だった」というほどのことだった。

わずか2イニングの登板だったが、あろうことか1イニングで3本のホームランを打たれたのだった。「野球を始めてから、初めての経験。とんでもない世界に飛び込んでしまった」と述懐する。「高校野球とは違い1番から9番打者まで、すべて4番打者が打席に入っている印象だった」と、高校と社会人の違いを明確に説明してくれた。

「(その後)いろんな壁に当たった時、この試合を思い出しては自分を奮い立たせている。あの試合が僕の社会人野球の原点」という野田にとって、都市対抗で優勝を決めた試合よりも、洗礼を受けたデビュー戦の試合が、最も印象に残る試合だという。

デビューから13年目の平成22(2010)年、現役生活を終えた。もっと練習に励めば「プロを目指していたかも」との思いにもかられたというが、自慢できることは現役生活の期間に故障してチームに迷惑をかけたことがなかったことだ。「本当に丈夫に生んで、育ててくれた両親に感謝したい」。

現役を退いてからTDKの人事部に配属されたが、今秋、7年ぶりにグラウンドに立つことになった。阿部博明監督に請われての復活に、「私の役目は投手陣の役割を明確にして、毎年、安定した成績を残すことができるチームと投手を育てること」ときっぱり。自身の経験から試合への入り方、投手としての身体の作り方など、知っていることはすべて伝えていきたい」と張り切る。

現役生活を振り返り「(優勝も経験できたし)100点満点」という野田の、今後のコーチとして、チーム、そして投手陣の再建が野田の双肩に託されている。

編集後記
現役の時と比較してふっくらとした体形に「体重はご想像にお任せします」との拒否反応に笑ってしまった。
「これまでの野球生活で、上下関係、そして組織の中での自分の立場など、野球を通じて学んだ」という野田にとっては、コーチという立場になった現在、それまでの経験から多種多様な「(指導方法の)引き出し」を持っているに違いない。
色紙に書いた「楽しく」は苦しい時こそ、楽しいことを忘れると、乗り超えることはできない。常にポジティブに前を見詰めて、という意味合い。全国優勝投手の手腕を期待したい。

≪文・写真:ボールパーク秋田編集部≫

~ profile ~

野田 正義(のだ まさよし)氏
昭和54年生まれ
東京都出身 にかほ市在住
1997年(平成9) TDK入社
2006年(同18) 第77回都市対抗野球で全国優勝 橋戸賞を受賞
2006年(同)   社会人ベストナイン(投手)
2010年(同22) 現役生活終える