野球を始めたのは、日新小学校4年生の時だった。 以来、ポジションはずっと「扇の要」キャッチャー。チームの主軸として活躍したが、輝かしい記録を残すことのないまま中学生にな った。秋田西中では2年生でレギュラーとなり、チームの主軸として活躍するも、ここでもこれといった成績を残すことはなかった。
そして高校進学。どこの学校に行くか悩んだが、3歳上の兄・秀悦さんが通っていたことと、加藤秀夫監督からの熱心な誘いを受け、秋田工への進学を決めた。1年生からレギュラーに抜擢され、3年生のエース三浦浩とバッテリーを組んだ。最初の2、3カ月は、軟式野球時代とは全く異なるスピード、変化球のキレに戸惑い、更にプレッシャーもあったことで、捕球したボールをピッチャーまで投げることすらできず、苦労した。それでもただがむしゃらに野球を続けた。 「何かを考えてる余裕もなかったんです」(笑)そして、慣れてきたのか、肝が据わってきたのか、夏の大会には弱点を克服していた。 しかし、3年生を勝たせることができずに1年夏が終わった。
そして新チーム。川辺忠義、佐々木学の2枚看板で挑んだ2年夏。それもあっけなく終わり、2年秋に、それまで指導してくれていた加藤秀夫監督から、石橋智監督へとバトンが引き継がれた。石橋監督の都会仕込みの指導法には衝撃を受けた。熱血野球の加藤監督に対し、石橋監督は理論野球。捕球動作のみならず、わざとファンブルさせてその後の対処の練習など、すべてが新鮮だった。年齢が近かったこともあり、監督でありながら選手たちにとっては良き兄貴分でもあった。
そんな石橋監督と共に最後の夏を迎えた。順調に駒を進め、決勝戦は秋田南。1回裏にタイムリーヒットを打たれ1点を先制された。 しかし、焦りはなく、むしろ、そこには冷静な自分がいた。チームの仲間たちも同じく飄々(ひょうひょう)としていた。6回表。自身が四球から出塁し、盗塁にも成功した。「後から指摘されたことですが・・・、盗塁のサインだと確信し、迷わずスタートをきりました。ひそかに足にも自信がありましたから(笑)。でも、同時に取り消しのサインが出ていたのを、まったく気付いていませんでした」(笑)その盗塁が功奏し、次打者の長谷川和徳のライト前ヒットで生還し、同点に 追いついた。そして7回表、南都一己が勝ち越しホームランを放ち、2-1で勝利。22年ぶり2度目の甲子園出場を果たした。この日が人生においてのターニングポイントとなった。後に甲子園でプレーしたことで、自分自身の実力を知り、淡い夢だった「プロ野球選手」が、より現実としてみえてきた。
甲子園は、とにかく楽しかった。緊張もあったが、それよりも憧れの場に行けたうれしさの方が大きかった。エース川辺の調子も良く、要求どおりのボールを投げてくれ、加えて打線も好調。1回戦の倉敷工(岡山)に11-1、2回戦も日南(宮崎)に4-0と順調に勝ち進んだ。そして3回戦の相手は佐伯鶴城(大分)。 相手エースの野村昭彦のピッチングに翻弄され、0-2で完封負けを喫した。しかし、泣いている選手はいなかった。高校球児にとっての夢の舞台で野球ができた達成感、存分に楽しむことができた満足感に包まれていたのだろう。全国のレベルに通用するチームだということを証明できたという達成感も大きかっ た。最高のメンバーを集めてくれた加藤監督、自分の中の野球観を変えてくれた石橋監督には感謝している。
その後、国体にも出場するのだが、1回戦で東洋大姫路(兵庫)と対戦し、長谷川滋利のピッチングになすすべもなく敗退した。
高校球児としての熱い夏を終え、進路を決める時期となった。大学進学は考えていなかった。「プロ野球選手になる」という夢を叶えるために、地元秋田や東北の企業チームからの勧誘を断り、強豪がひしめき、レベルの高い関東へ行くことを決意し、NTT関東に自身の夢を賭けた。
そこで目の当たりにした社会人のレベルに圧倒された。スピードもパワーも桁違いだった。守備の練習に重点を置き、先輩の技を盗もうと努力した。2年目の都市対抗後からは、レギュラーとして試合に出るようになった。ドラフト会議で指名される日を夢見て、毎日練習に励んだ。しかし、候補として名前は挙がるのだが、指名されることのないまま13年の現役生活に終止符を打ち、夢は夢のまま終わりを告げた。
現役を引退後は、シニアの指導者という立場に就くようになった。今は千葉北シニアでテクニカルアドバイザーとして指導に携わっている。土曜、日曜もチームの指導に全力を注ぐ。小学校4年生で野球を始めてから今まで、野球から離れたことは一度もない。「きっと野球から抜けることはできないし、どんな形でも、野球にはずっと携わっていきたい」
今までの野球人生を振り返って一番印象に残る試合は、第25回社会人日本選手権大会で優勝したときのこと。 決勝の相手は日本生命。自身は指名打者としての出場だった。激しい点の取り合いから、最後は沖原佳典のサヨナラ打で初優勝を決めた。単独チームでの優勝だったこと、NTTグループ内でも日本選手権での優勝は関東が初めてだったこと、何よりも自身が野球を始めてから初の日本一だったことで、印象強く残っている。
野球とは、『自分をここまで育ててくれたもの』。野球のない生活は想像もできない。どんどん変わっていく野球を自分なりに勉強し、それを子供たちに教えていく義務があると感じている。まずは今、指導しているチームを優勝に導きたいと思っている。そしてゆくゆくは、母校である秋田工高で監督になり、甲子園を目指すことが今後の夢でもある。
編集後記
穏やかな口調のなかでも野球に対する熱い思いを強く感じる。週末、千葉北シニアの練習や試合に行けないことが、一番のストレスと言い切るあたりが真に野球を愛する男の表れだろう。 豊富な経験と知識、かつ、研究熱心な川村健司に指導してもらえる千葉北シニアの選手達を羨ましく思う。
≪文・写真:ボールパーク秋田編集部≫
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川村 健司(かわむら けんじ)氏 |