小学3年生の時、広面野球スポーツ少年団に入団したのがスタートだった。当時は体も小さく主に内野を中心に練習していたが、6年時には投手も経験した。鶴田達郎監督の指導の下、全県優勝を果たしたが、苦い思い出が一つある。それは全県大会の決勝戦。最終回のマウンドに上がったのだが、1点を奪われた。結果的には8-1で勝ったのだが、それまで相手打線を0点に抑えていたのに、悔しさよりも恥ずかしさがこみ上げてきた。
その後、城東中に進み鈴木秀雄監督のアドバイスで1年秋から捕手にコンバートされた。マスクなどそれまでの野球経験の中で被ったこともなく、戸惑いながらの日々を過ごした。ボールを後ろにそらさないようにするのが精いっぱい。そして投手のリードを含む配球には苦労したという。
3年時に監督が若狭良博監督に代わったものの、左腕・田中功、右腕・太田政直の2枚看板で全県を制し、その勢いを横浜スタジアムの全国大会まで持続。県内ではその後、どのチームも成しえていない全国Vを達成した。
この時、捕手として苦労したのが、投手のリードと気配りだった。気配りというのは、2枚看板だけに、片一方の投手がマウンドに上がると、もう一人の投手は1塁を守る。どちらの投手も個性が強く「俺が投げたい」という気持ちが強かっただけに、守っている投手に対しての気配りには神経をつかった。
経法大附高に進学して1年からベンチ入り。伊藤護朗監督から斎藤茂樹監督に代わった1年秋、野球に関する概念を根本的に変えられた。今でも記憶に残っているのは「西の高校球児」は甲子園で優勝をするために練習をしている。翻って「秋田の高校球児」は甲子園に出場するために練習をしているという言葉だ。モチベーションの違いに困惑した。
高校2年秋、そして3年春の全県でいずれも優勝。夏の甲子園も確実だったはずが、高校野球に「絶対」はなかった。城東時代のチームメートで、全国の頂点に一緒に立った秋田・太田の前に敗れ、夢はついえた。燃え尽き症候群という言葉がぴったりの数日を過ごした。
就職は迷った末に羽後銀行(現・北都銀行)に決めた。当時、軟式野球から硬式野球に切り替えると聞いたのがその理由だった。新たな歴史を刻みたい、と意気込んで入社したもののバブルがはじけ、硬式野球の転換の話は白紙に戻った。結局、現役選手として10年、監督として6年、計16年の間に国体や東日本大会などに出場を果たした。今では良き思い出として心に残っている。
「小山」という名前を得意先の人たちが知っていることで、営業成績を高めるには、大いに貢献したという。 「野球をやっていたお陰です」。
野球部を離れてから数年後、横手に異動。このころから今度は長男の指導者としての人生が始まった。そして仙台。まさに二人三脚の野球生活だった。このころ長男はリトルシニアに入り、小山自身もコーチとしてチームに帯同した。
3年後、秋田に戻った。ここからは二人三脚の野球にとっては「ラッキー」の連続だった。秋田シニアに入った長男が全国大会や選抜チームへの参加を果たしたのを皮切りに、秋田商高入学後は、甲子園への出場を果たした。親の果たせなかった甲子園を子供に託し、それを実現してくれた長男の頑張りを素直に喜んだ。ちなみに子供の名前は「塁」。親子の名を合体すれば「満塁」となる。さすがは野球親子。
これまでの野球経験を通じて、一番の財産は「いい指導者に恵まれたこと」と語る。そして、彼らから指導を受けて役立った部分を取捨選択して、自身が指導者になったときに、生かしたという。そして忘れてならないのは仲間の存在だ。「小・中学を通じて無敗の仲間なんて、そんなにいないからね」。今でもその仲間たちには感謝の念を抱いている。
秋田の野球にはこんなアドバイスを送っている。指導者にもよるが、子供のころからあまりにも型にはめすぎていると感じる。例えば打撃では当てに行く姿勢が目立つ。もっと豪快なホームランバッターを育てるような気持ちをもってほしい。
「野球って人生だと思う。道かな。私から野球を除外すれば、何も残らない。人生道と野球道が平行線で一生、続いている感じかな」。こんな言葉で締めくくってくれた。
編集後記
久しぶりに顔を見て、現役のころ、強肩で冷静な捕手・小山の姿がプレイバックした。いやらしいほど相手打者を観察している姿だ。積極的に表に出ることはせず、あくまでも「黒子」に徹する捕手の姿だ。今でも球場にいる姿のその目線の先には、凝視する選手の将来像を描いているのだろうか。ジュニアの育成には不可欠な人材だと思う。秋田を、いや日本を代表するような選手を育成してほしいものだ。
≪文・写真:ボールパーク秋田編集部≫
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小山 満(こやま みつる)氏 |