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幼いころ、兄の影響で自宅近くの田んぼでよくキャッチボールをして遊んだ。太田東スポーツ少年団に入団したのは、小学5年生。積極的に(野球を)やる気はなかったが、周囲がこぞって入団したことが端緒となった。6年生では6番でショートを守り、何十年ぶりの全県大会にもコマを進めた。

太田中学校時代は主に外野手だったが、2年秋から本格的に投手の練習を始めた。が、地区大会では惨敗だった。

大曲農高に入学してからは投手に専念した。1年秋の全県大会だった。準決勝の相手は中川申也(元阪神)率いる経法大附。結果的に敗れたものの、自責点は0。この試合で投手としての自信を見いだした。あれから25年。今でもこの試合だけは鮮明に脳裏に残っている。それだけ「ナイスピッチング」だったのだろう。
 2年秋、そして3年春の全県大会ではいずれも能代高に敗れた。迎えた夏の県大会でも創部3年目の修英高によもやの敗戦。ナインには申し訳ない気持ちでいっぱいだったという。 修英高とは地区大会でも何度か対戦して、負けたことはなかったものの「やりにくい相手だった」と振り返る。春の全県大会でつかんだシード権を生かして、目標だった「甲子園切符」をつかむことは叶わなかった。

大学進学は心の中にはなかった。東芝、川鉄千葉、JR東北、住金鹿島など社会人野球では名門チームからの勧誘を受けた。その中から川鉄千葉を選択した。決め手は県人選手が多く在籍していたのが、その理由。
 川鉄千葉には7年間、在籍した。そのうち都市対抗に出場したのは6回で、準優勝も経験した。当時、自身の夢は「五輪出場」。結局、その夢の実現は叶わなかったものの、当時を振り返って「コーチに丁寧に指導してもらった、というよりも、技術は自分の目で盗むもの」ということを学んだ。したがって、コントロールを身につけるには、最後まで苦労したという。

25歳の時だった。五輪とは違うもう一つの目標だった「プロ野球」からのドラフト指名もなく、秋田へ戻りユーランドホテル八橋に就職、野球を続けた。「プロへ行って親孝行したかった」とつぶやく。

野球の魅力を「チームプレー」、そして「楽しく」がモットー。何の仕事でも、あるいは趣味でもしかり。その楽しさや奥深さを理解できるまでは、それなりの経験(時間)や苦労を積むことが必要だ。また、見ているだけでもその楽しさが伝わってくることもあるはず。果たして、現在でも続けている野球の中で、その楽しさを見いだすことができたのだろうか。

今でも硬式では大曲BC、軟式では大曲野球倶楽部に所属している。野球を続けている理由を「親孝行のためかな? 元気な姿を(両親に)見せることが一番」とはにかみながら話す。そして野球とは「つながり」であり「人生の一部」とも。今でも野球関係者にはよく声を掛けてもらっている。この出来事がうれしくもあり、励みにもなるという。

編集後記
こまちスタジアムのバックスクリーンに120㌔後半のスピードが掲示された。取材したこの日は、軟式の試合。左腕から繰り出されるストレートは現在でも切れ味十分。
苦労を重ねた分、楽しみながら投球する姿がマウンドで大きく見える。「自分には野球しかないので」と語るその台詞通り「野球小僧」がそこにいた。

≪文・写真:ボールパーク秋田編集部≫

~ profile ~

湊谷 秀樹(みなとや ひでき)氏
昭和49年生まれ
秋田県大仙市出身