第4回全国中学校軟式野球大会優勝
当時は一試合一試合一生懸命投げていた記憶しかないと言う。決勝戦の横浜スタジアムは暑く、体力的にも限界で、早く開放してほしい気持ちだった。優勝した時は、疲労困憊で実感はなく、秋田へ帰省してパレードを行い実感がこみ上げた。
秋田高校時代は1年生ながら県大会決勝で金足農業を完封し、夏の甲子園出場を果たす。 中学では全国優勝したとはいえ、高校からのスカウトも無く、中学校の先輩からの誘いで秋田高校へ進学を決めた。 入学してからは、ほとんど遠投だけの練習。夏の大会の2カ月前から本格的にブルペンでの投球練習で夏本番を迎えた。当時は先輩の目が厳しく、新入生の私にとっては練習だけで精一杯、と振り返る。決勝の金足農業戦での完封勝利には後に、名将金足農業監督の嶋崎氏がこの試合で監督を辞めようといわしめた投球ぶり。
3年時は決勝まで進出したものの、能代商業(現能代松陽高校)に負けて甲子園出場は果たせなかった。 当時、決勝の八橋球場で試合開始前の散水でマウンドが水浸しで自ら整備するものの、このことで切れた気持ちを最後まで平常心に戻すことはできず、甲子園への切符を逃した。 投手らしく繊細な一面を持つ太田投手であった。
高校卒業後は、社会人のNTT北海道へ入社、一年目で大昭和製紙の補強選手で都市対抗(後楽園球場)へ出場した。 当時の記憶はマウンドが非常に高かったイメージが残っているという。 プロへの道を諦めきれず2年半で退社し、プロテストを受けた。最終選考まで残るものの、プロへの夢はかなわなかった。
3年のブランクを経てサンワード貿易へ転職し、硬式から軟式へと変えた。2年目で北海道国体予選準優勝。3年目には見事優勝を果たし、北海道代表で福島国体へ出場し、自身2回目の全国優勝を果たした。 道内の社会人チームが相次いで休部したのを機にサンワード貿易は軟式から硬式へ転換を迎えた。その後、サンワード貿易では都市対抗へ3回出場。
太田自身のサンワード貿易時代の記憶に残る試合は、ふくしま国体での準々決勝、大阪代表の佐川急便戦で8回までノーヒットに抑えられていたが、自身のホームランで1:0で勝利しこの試合が野球人生でもっとも記憶に残る試合という。 国体予選では自ら試合途中でマウンドからキャッチャーの交代を告げるなど、こだわりぬいたエピソードを持つ。
サンワード貿易を退職後、次に選んだのが北海道伊達町の聖ヶ丘病院。社会人野球のクラブチームへのチャレンジだ。4年間をクラブチームで過ごし、小学校、中学校、高校、そして社会人と太田氏の人生が野球を中心に歩んできたことが裏付けられる。
今でも感謝しているのは、秋田東小学校で投手にしてくれた当事の監督、投手として成長させてくれた城東中学校の鈴木先生、高校では立花先輩、社会人時代ではNTT北海道の池本捕手に影響を受け、頭が上がらないようだ。
三男の高校進学が自身の出身高、秋田高校に決まり、これを機に秋田へUターンする。
小学校から今まで投げることが楽しくてしょうがなかったと話す太田氏は根っからの野球人。 野球をやる若い人には、現状に満足することなく常に目標をもって上を目指してほしいという。
太田氏にとって野球とは「過去の夢」と話し、現在は、子供の成長を楽しんでいる。
編集後記
インタビューの間、終始笑顔で話をしてくれた太田氏。小学校当時、投球時も笑顔で投げていたことを思い出した。厳しい野球の世界、しかも45歳まで現役にこだわり続けた男の一面が少しわかった気がした。現在は秋田市に戻りサラリーマンをしている。
そんな太田氏、故郷秋田で再びエースになるのも近いのでは・・・
是非、エールを送りたい。
≪文・写真:ボールパーク秋田編集部≫
~ profile ~
太田 政直(おおた まさなお)氏 昭和42年生まれ 秋田県秋田市出身 第4回 全国中学校軟式野球大会 優勝 第65回全国高等学校野球選手権大会出場 1995年ふくしま国体軟式野球成年の部 優勝 都市対抗野球 4回出場 |