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初めてグローブに触れたのが、小学3年生だった。当時は体も大きく、足には自信があった。
クラス対抗、そして町内でやる野球が面白くて、これが野球を始める原点だった。

5年生から部活に入り、すぐにレギュラーの座を射止めた。打撃は「一発屋」だったが、図体と足の速さはトップクラス。6年生の時、地区優勝はするものの、郡大会で西長野小に敗れ、全県出場を逃した。

中学に入り、すぐに外野手としてベンチに入った。2、3年生時に、内野手でレギュラーをつかんだが、ここでも「あと1勝」というところで全県出場を逃している。
中学の時の思い出は「平和中グラウンドでフェンス越えのホームランを打ったことかな」と照れ笑いを浮かべる。

高校進学については悩んだ。当時の県内の高校野球は、秋田商と大曲農が強かった。しかし、秋田商で野球をするには自信がない。かといって、大曲農へ行っても農業をやるわけでもない。出した答えは、中学時代の先輩のいる大曲工だった。

入学したその年。木製バットから金属バットに変わった。しかし、打撃練習は金属バットではなく竹バット。芯を外すと手がしびれ、大好きだった打撃練習も憂鬱(ゆううつ)になることもあった。

守備練習では球足が速くなったとはいえ、不思議に恐怖心はなかった。サードを守り、打球への対応が日に日にうまくなっている、と実感していた。

高校最後の夏は、初戦で五城目に延長13回で敗れた。4打数1安打とふがいない結果に「4番打者」としての自分を責めた。3年間で1番悪い成績だった。

「あれが本当の実力だったのだろう」と、今だからこそ冷静に振り返ることができる。チーム全体が目先(2回戦)のことを考え、初戦の相手を甘く見ていた結果だった。先制点を奪われると、あっという間に回が進み、プレッシャーで自分を見失った。

高校野球の3年間を振り返ると、「目標が定まっていなかった」という。甲子園という漠然とした憧れはあったが、かといって目標でもなく、なんとなく「勝てばいい」という安易な気持ちで取り組んでいた、という。

「現在の高校球児はこんな気持ちで取り組んではいないと思うが、是非、しっかりと目標を設定して、ひたすら野球に打ち込む努力を積み重ねてほしいと願っている」

高校卒業後は、上京した。

      

そこで目指したのは「役者」だった。当然、親の猛反対にあったものの、劇団の研究生として毎日、汗を流した。
「1つ年下の柳葉敏郎に感化されたのかな」(笑)。

劇団の研究生をしてはいたが、野球への未練も断ち切れなかった。
20歳の頃、読売巨人軍の入団テストを受けた。練習不足ということもあり、結果は推して知るべし。同時期に親からは「安定した会社への就職を」と言われ、帰郷した。そして、東北肥料(現・三菱マテリアル電子化成)の入社試験を受けて、就職した。

入社後は、同社の野球部に入部した。当時、東北肥料は県内の社会人野球大会では連敗続きだった。しかし、真面目に練習に参加していたことを評価され、試合では使ってもらっていた。

記憶に残っている試合は、秋田ベースボール時代にクラブ選手権出場をかけて対戦したユーランドクラブだった。選手を補強し、強化を図って勢いに乗るチームだった。

試合は0-8と、一方的な相手ペースの展開で進んだが、大逆転で勝利したことが、一番の思い出だ。

「弱小チームが1つにまとまれば、こんなに強くなれるんだ」ということを学んだ試合でもあった。その後、全日本クラブ選手権には5度出場(4年連続含む)黄金期を経験した。

現在所属する牛島クラブとの出会いは、17年前、500歳野球で初優勝した時からだ。その頃、子供が牛島小で全国大会に出場した。練習を手伝うことがきっかけとなり、50歳を機に、500歳野球にのめりこんだ。

当時のチーム名は「牛島同好会」だったが、メンバーの招集など毎回苦労し、現在の牛島エスポークラブの下部組織を吸収して「牛島クラブ」と改称した。チームも若返りを果たし、監督に就任した。その年に全県優勝を果たし、監督業も今季で4年目になった。

現在のチームの一番の悩みが中間層の戦力が薄いことだ。68歳、そして70歳の2人の「鉄人」が若手の代役を演出して、チームを引っ張っていることがチームの強みでもある。

もう一つがチームのコミュニケーションの問題。監督になって、飲み会の機会を極力減らしていることもあるが、年配のグループと若手のグループとのコミュニケーションづくりが重要とも考えている。

「若手の部員はまだ小さい子供もいるし、家庭サービスと並行しながらの参加になるので、それは大変なことでもあるとは理解しているんですが…。でも、いろんな悩みがあるとはいえ、監督としてやりがいもあり、試合に勝つことで、楽しんでいます」

野球というツールからいろんなことを学んだ、という。まず「練習は嘘をつかない。このことが一番です」と語る。年配者も真面目に練習を行い、必ず結果に表れる。何事も準備、プロセスが大事なことを教えられた。

昨年から始まった全国500歳野球大会で今年、優勝した。「まともな状態で臨めば、勝てる自信があった」という。さすがに第1回大会で準優勝したことで、今季は何を求められているのかも痛感していた。そのためには補強ポイントを絞り、自ら勧誘を行い試合では補強選手達が我がチームに融合して怖くなるほど選手起用、采配が的中した。

「監督冥利に尽きるが、選手が役割を果たしてくれたおかげと感謝している。本当にうれしかった。逆に、これから全国優勝してからのプレッシャーの方が大変ですね」

今年の夏は金農フィーバーで県内は沸いたが、これからの秋田の野球発展のためには、指導者の養成に力を入れるべき、と考えている。選手への指導はもちろんだが、指導者は理学療法を理解したうえで、最高のパフォーマンスを表現できる選手の育成が指導者に求められている、という。その背景には「けがに強く、柔らかい身体能力を生み出すことの体づくりが必要」ということだ。

秋田の子供たちは体力に優れていることから、小さい頃からの体幹を鍛えることで、150キロを超えるスピードボールを投げる多くの高校球児が出現するのも夢ではない、と感じている。

「自分にとって野球とは、苦しい時もあるが、勝って仲間と抱き合って、涙を流せるなんて、こんな幸せなことはない。だれもが体験できないことを体験できる野球は、生きる活力です」と結んでくれた。

《編集後記》
一見、怖そう(失礼)な表情の奥に、人一倍真剣に野球に取り組んでいる人柄を感じる。監督として、選手の起用には期待と配慮をし、やるからには「勝ち」にこだわった采配には切れがある。500歳野球の頂点を追いかける指揮官は年齢を感じさせない若々しい姿があった。



≪文・写真:ボールパーク秋田編集部≫

~ profile ~

田口 浩之(たぐち ひろゆき)氏
昭和34年10月生まれ
大仙市刈和野出身
刈和野中―大曲工
現在は牛島クラブ監督