野球を始めたきっかけは、5歳年上の兄の影響だ。そのころ、小野は兄の背中を追って「三角ベース」の邪魔をすることが“日課”だった。本格的に取り組んだのは保戸野小5年生の時から。
当時は投手を務め、捕手は現在、新日鉄住金社長の進藤孝夫だった。その後、山王中ではショート、憧れて入学した秋田商ではセカンドを守り、JABA・保坂兼也県連盟会長と二遊間のコンビを組んだ。
大学は青山学院大へ進んだ。東芝や全日本の監督を務めた太田垣耕造とは同期だった。当時、東都リーグ2部で2回優勝したものの、入れ替え戦で東洋大に敗れ、1部昇格を果たすことは叶わなかった。
大学卒業後の昭和47年、秋田商の教員として赴任した。故・今川敬三監督の下で、1年間コーチとして高校野球の「いろは」を学んだ。その後、能代商(現能代松陽)に異動し、同49年から同校の監督に就任した。その年は、いわゆる「金属バット元年」で、「守りの野球」から池田(徳島)に象徴される「打つ野球」に様変わりした節目の年だった。
高校野球の監督を務めるに当たり、同期だった太田垣からは「甲子園で勝つためには、かなりのしんどい練習が必要。監督として覚悟はできているのか」など、多方面にわたりアドバイスをもらった。
小野が指導において一番心掛けたのは「入学当初、希望に満ちあふれて入学した選手の気持ちを、卒業までに変わらずに持ち続けさせること」と言い切る。
「野球が好きであれば当然、もっと上手になりたい、と努力もする。(指導者は)そんな姿を見極め、選手の気持ちを大切にしなければならない。自分が監督を務めた期間は、辞める部員はほとんどいなかった」という。
指導方針は、こんな言葉を掲げた。
1 指導者の指導性と、選手の自主性の調和
2 スターをつくらない。落伍者をださない
小野の現役時代は、「何時まで練習」という時代だったが、監督になってからは「何時まで帰れ」という時代に変化した。県予選での敗退や甲子園に出場したことでの、変化だった。練習では打撃練習を増やした。それまでは、実戦形式のシートバッティングが主流だったが、小野はいろんな状況を想定して「どうやって1点を奪うのか」「どうやって守り抜くのか」を選手に考えさせて、選手が実際に試合で躊躇(ちゅうちょ)なく実践できるように、その練習を採用したのだった。
その中でも「無死満塁」のケースを一番多く取り入れた。この場面でのポイントは先頭打者の役割。攻撃側はこの状況で1点を取ることが「できるのか」、あるいは「できないのか」で、その後の試合運びに大きく影響される場面でもある。一方、守備側にしてみれば、この先頭打者を三振に仕留めることができるのかが、ポイントという。このことは、小野の経験値から感じていたことでもあり、「無死満塁」を攻守にわたって、反復練習を繰り返したのだった。
選手の個別の指導では、「同じ指導をしないこと」。さらには「自分ができないことは、選手には教えないこと」を徹底した。選手それぞれに個性や特性があることから、それらに合わせた指導法が必要という。
周囲からは、自分ができないことを教えないと監督以上の選手が育たないのでは? という声もあったが、「素質も能力も選手が(自分より)上だから、決してそんなことはない」と突っぱねた。
秋田商の監督時代、1-3で敗れた相手チームの監督が試合後、鬼のようなノックの嵐を選手に浴びせた。この光景を見た小野は「この試合はバッティングの差がでた試合」と感じていたが、指導者が「自分の満足のために「鬱憤(うっぷん)晴らしのようなノック。指導者としてはやってはいけないことだ」と痛感したシーンでもあった。
こんなこともあった。秋田商の監督時代、地元開催の秋季東北大会で優勝したときのこと。初戦で5失策をした。そのとき、試合終了後、大会役員から「こんなんじゃ、推薦できませんよ」と皮肉たっぷりに言われた。試合では勝つことができたものの、内野の守備はボロボロ。この時ばかりは帰ってから30分だけ、守備の練習をした。冒頭の「鬼のようなノック」ではなく、だれでも取れるような簡単なゴロをあえて打った。選手には足の運びだけを注意させた。その後の試合では、失策は「0」。昭和35年以来、4度目の優勝を果たし、翌春のセンバツにつなげた大会でもあった。
試合中のタイムでは「守りのケースで、本当に必要なタイムは滅多にない、と感じる。監督の不安解消のためのタイム要求となっているのが目に付く。もっと選手を信じてやらないといけない」と見ている。
監督時代、秋田・小野巧。金足農・嶋崎久美。経法大付(現明桜)・鈴木寿宝の3人の監督にはライバル心をむき出しにした。特に嶋崎には「意識もしたし、最高の好敵手だった、と今でも思う。特に金足農との対戦で印象に残っているのが、スクイズを警戒して外野手1人を内野に守らせたにもかかわらず、それでも嶋さんはスクイズを決めた。この時ばかりは私の上をいきました。さすがに驚きでした」(笑)。
さらには、市内リーグ、中央地区、全県大会でも秋田商が金足農に勝っていても、夏の県大会では16-17で負けたこともあった。「夏の大会に照準を合わせてチームを作ってくる嶋さんは、本当に嫌だった。選手たちも、監督の方針をよく理解して、戦いにくい相手だった」と振り返る。
一方、秋田・小野監督に対しては「うらやましい」という言葉がでてきた。その理由は、小野にとって秋田は「憧れの進学校」というイメージ。
「そんな学校で野球ができる環境に、やきもちを焼きましたよ。ただ、負けた記憶はないけどね…」
また経法大付・鈴木に対しては、「相手は私立高でもあり、野球のできる環境が整っていたことから、負けるわけにはいかない、という思いで試合に臨んでいた」という。
高校野球のエースになるための条件を「身長が高く、強いボールを投げる」が小野の持論だった。それが、秋田商OBの成田光弘の言葉で、そんな考えが覆った。
ある年の能代遠征で、現在、プロ野球のヤクルトで活躍している石川雅規の投球を見た成田が「いい投手だ。エースにすればいい」という言葉を小野に投げかけた。「投手は体ではない。いいボールを投げることができるのかが重要」というアドバイスを得て、それまでの考えを改めた。
「ある意味、石川の実力(素質)を見抜いたのは成田さんでしたね。あのとき、成田さんのアドバイスがなければ、その後、佐藤洋をアンダースローにすることもなかったですよ。成田さんには感謝です」。
監督経験の中で一番記憶に残っている試合が、甲子園での済美(愛媛)との一戦。8-11で敗れた試合だ。
当時の済美は、前年の秋の神宮大会、センバツでの優勝など、夏の大会でも優勝候補の筆頭だった。秋田商もセンバツではベスト8に進出、夏の甲子園では佐藤剛士を擁して全国の頂点を本気に狙っていた年でもあった。
この試合、こんな場面があった。最終回の秋田商の攻撃で、1死、1、3塁で打席には佐々木陽祐主将。佐々木は初球のボールのスライダーに手を出して万事休す。小野は試合後、佐々木に対してこんな言葉を投げ掛けた。
「お前はたいしたもんだ。お前でなければ、あのボールをバットに当てることはできなかった」と、凡退したにもかかわらず、逆に称賛の言葉を贈った。「普通の打者ならば空振りですよ」。
これからの秋田の高校野球には「野手力の強化、特に全国で通用する打者を育成してもらいたい、と願っている。確かに、投手は野球での核となるが、県勢が勝ち進むためにはロースコアの展開でしか勝つことはできない。そんなことから打てる野手の育成が急務では」と唱える。
最後に小野にとって野球とは? という問いには「これまでの人生は野球を中心に生きてきた。野球っていうのは、死ぬまで勉強じゃないかな、と思わせる競技。この年齢になっても、日々気付かされることもあるし、知らないこともある。もっと勉強しろ、と言われているよな気がするのが、野球でしょうね」と締めくくってくれた。
《編集後記》
いまだに衰えぬ平節(たいらぶし)に野球への情熱を感じる。本県において、本気で全国を狙った監督は果たして、何人いるだろうか。今では、教え子も全国へと散らばり、小野のDNAは確実に広がり、野球界の発展につながっていると確信する。金足農・嶋崎監督を尊敬し、ライバル心を燃やす姿に、年齢を感じさせないオーラはまだ残っている。幅広い人脈を最大限に生かし、秋田の野球発展に尽力してもらいたい人材だ。
≪文・写真:ボールパーク秋田編集部≫
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小野 平(おの たいら)氏 |