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母校の経法大付(現・明桜)になったのを皮切りに、監督生活が30年、過ぎた。その間の苦しかったことも、楽しかったことも、すべて脳裏に焼き付いている。

経法大付では春、夏合わせて8回、甲子園に出場したが、その後、角館、西仙北、大農太田分校、秋田修英と転々とした。指導者として野球ができる環境を求めてのことだが、「生徒たちには3年間継続した指導ができず、申し訳なかった、という気持ちが残っている」と振り返る。

高校野球の監督を目指したきっかけは、自身が昭和56年夏の甲子園に出場したことで、「もう1回、甲子園の土を踏みたい」と思ったことによる。選手専用通路からグラウンドに出る風景は、最高に美しい「聖地」だった。

監督に就任した当初は、若かったこともあり、かなり選手を叱った。人間が丸く? なったのか、今は選手を叱ることは滅多にないという。時には褒めたり、あるいは冗談を言っては選手との距離を縮めている。

「若い頃は、選手から見れば先輩、あるいはキャプテンみたいな存在だったかな。その後、監督経験を重ねることで、コーチになり、最近ようやく監督らしくなれたかな?」と自己分析する。

8年前に現在の秋田修英に赴任した。当時の野球部は万年初戦敗退。野球に対する意識も希薄だった。そのため、部員が練習を無断で休むことは日常茶飯事。そんな状況を打破しようと、「やる気のないやつは、もうこなくていい」と伝えると、次々と退部し、残った部員はわずか2人だった。その人数でできる練習といえば、キャッチボール、そしてランニング―。「春になったら必ず新入部員が入ってきて、試合ができるから」と残った2人を励ました。

県内の中学校への勧誘活動もした。だが、「野球部員がいないじゃないか」との理由で、取り合ってもらえないことが大半だった。ただ、うれしいことに春には9人の部員が入部してくれた。「1人も脱落者を出してはいけない」と、この時から厳しい指導から選手に寄り添う指導へと、180度の方針転換を図った。

はたから見ても、選手たちにはよく声を掛けている。声を掛けられた選手からは笑みがこぼれ、雰囲気が明るい。「同じ指揮官とは思えない変わりよう」とは、第三者の評。

これまで、教え子の中にはプロ入りした選手も数多い。中川申也(阪神)、小野仁(巨人)、鎌田祐哉(ヤクルト)、小山桂司(楽天)、摂津正(ソフトバンク)、加藤光教(中日)など、そうそうたる顔ぶれがそろっている。

最近の修英の成績は右肩上がりだ。夏の県大会では連続して8強入り。春の県大会でも、初の4強入りを果たし、着実に力をつけてきた。どん底から這(は)い上がってきたチームに足りないものは「優勝」とまで言い切る。
「どんな小さな大会でもいい。とにかく『優勝』という2文字がほしい。選手にはそれを経験させることで、成長してほしい、と願っている」。

監督経験の中で「印象に残っている試合は?」と水を向けると、1989年夏の甲子園大会での星稜(石川)との3回戦で、ホームスチールで勝った試合もそうだが、一番は同年の秋田大会の決勝での秋田戦だという。その理由は、バスター、エンドラン、そしてスチールなど、出すサインが「打ち出の小槌」のごとく、はまった。自身も「あれほど作戦が的中した試合はなかった」と振り返る。

また、一番印象に残る選手を1996年夏、秋田大会決勝でマウンドに上がった金沢博和投手という。彼は外野手からの転向で、厳しい指導ときつい練習を課して育てた。それに対して、文句も言わずついてきてくれて結果を残した。「あともう1人は、中川申也かな」という鈴木には、この中川には指導で苦労した記憶が残っている。

それ以前。オフシーズンの投手陣の練習メニューには、投球練習はなかった。ボールを握ることなく、いわゆる体力づくりを主とした練習が主流。雪が消え、グラウンドでボールを使って練習が始まったころ。中川いわく「投げ方を忘れてしまった」と訴えられ、鈴木は困惑した。以来、オフには必ず投球練習を取り入れている、という。

もし、野球の監督をしていなかったら、と尋ねると「寺の住職かな?」という返答。ここだけの話、「鈴木寿」から改名して「鈴木寿宝」にしたことも、実家のお寺を継ぐことを考えてのことだった。「住職の名前が1文字じゃあ、ダメでしょう」(笑)。今はお寺の後継者も決まり、監督業に専念することができる。

「高校生の成長を直接感じることができることが、この仕事の醍醐味。少しだけ手助けをして、子供たちに道筋をつくってあげたい」と語る。体が小さい子に、どうやってスピードを生かす選手にさせるのかなど、指導者としての課題は山積する。「でも、課題をクリアすることによって、全国では互角に戦える」と信じている。

「野球がなくなると、何をしていいのか分からなくなるくらい、私にとってウエートは大きい。自分の支えになっている」と締めくくってくれた。

《編集後記》
練習中も選手と同じ目線で、声を掛け合っている姿が印象的だった。わずか2人の部員からスタートして、ここまで成長させた手腕はさすがだ。「そろそろ甲子園に行きたいな!」と語る姿に、自信があると感じた。今年の高校野球は修英の活躍に目が離せない。



≪文・写真:ボールパーク秋田編集部≫

~ profile ~

鈴木 寿宝(すずき ひとし)氏
昭和38年生まれ
秋田県秋田市出身
金足東小―秋田北中―経大付高―法政大
経法大付高野球部監督から角館高―西仙北高―大曲農太田分校ーの野球部監督を歴任
現在は秋田修英高野球部監督