母校の秋田高監督として戦ったころ、心に残っている試合が2つある。1つは監督デビューした昭和51年夏の奥羽大会決勝。相手は武藤一邦、山岡政志率いる古豪・秋田商。一方の秋田といえば「せいぜいベスト8程度のチーム」(大久保)。その弱小チームがトントン拍子で勝ち上がり、決勝まで進んだ。結果は1-11の大敗だったが、監督として、チーム作りに自信を持った大会だった。
そしてもう一つの試合が、昭和58年夏の県大会決勝。相手は金足農。報道陣を含め大方の予想は「金足農 圧倒的有利」だった。なぜならば、準々決勝以降、秋田の戦いは4-3、1-0と薄氷を踏む勝利が続いたのに対し、金足農は、準々決勝を7-0で二ツ井を破り、準決勝では能代商(現・能代松陽)に11-0と危なげない勝ち方で決勝にコマを進めていた。
大久保は決勝の先発投手を誰にするのか、悩んだ。結局、指名されたのは入学してわずか数カ月の1年生投手・太田政直だった。「スタミナには不安はあったが、ボールの威力は上級生を上回っていた。試合の後半はどうでもいい」と腹をくくってマウンドへ送った。結果は、あろうことか、太田が期待に応えてくれた。3-0の快勝だった。嶋﨑久美監督は肩を落とし、大久保は宙に舞った。
大久保の父は金足農OBだった。幼い頃は、その父親に連れられて野球部の練習を見学しにいった。それが、野球との端緒だった。地肩が強かったのは、近場の小泉潟へ向かっては小石を投げて遊んだことが、その後の野球人生に大いにつながった。
小学校3年生でレギュラーを奪い、ショートを守っていた。学校では毎朝、三角ベースで5、6年生に交じり遊んでいた。実家が金足農のラグビー部の下宿をしていたことから、年上の高校生を相手に、キャッチボールを楽しんでいた。野球の基礎は、小泉潟と下宿の高校生に鍛えられた、といってもいいだろう。
金足西中時代は1年生からレギュラーだった。主にショートと投手。2年時には、地区予選で前年度に全県優勝した土崎中を破り全県大会に出場、決勝進出を果たした。3年時にも連続出場を果たしたものの、2回戦で敗退。初戦で優勝候補の角館を下したことで「気が緩んだのでしょうね」と振り返る。
秋田高か、あるいは秋田商か進路に悩んだ末に、「秋田高校を強くしたい」と夢と希望を持って秋田高を選択した。
入部直後は先輩との力の差に唖然(あぜん)とした。が、闘志に火が付いた。毎日の練習では打撃投手として200球以上を投げ込んで制球力を磨いた。スタミナもついた。すぐに結果はついてきた。その年の秋、東北大会を制して、センバツ切符を手にした。そのセンバツでは初戦で静岡高と対戦、6-7で敗れたとはいえ、全国レベルの手応えを感じ取った。そして夏。当時は秋田、秋田商、金足農の3チームが優勝候補。センバツに出場した秋田といえども「絶対」ではなかった。特にその年の春以来、三浦稔投手を擁する金足農には2度、零封負けを喫していた。県大会決勝では、その金足農を破って西奥羽大会へ進出、決勝では秋田商を破り、春・夏連続出場を決めた。
その夏。地元・秋田は甲子園での秋田高の活躍に沸き返っていた。1回戦で大鉄(大阪)に4-3で勝ち上がると、続く2回戦で日大二(東京)を5-3、3回戦で津久見(大分)を13-1で打ち破り準決勝へ進出した。今度の相手は巨人の前監督・原辰徳の父・原貢監督が率いる三池工(福岡)だったが、3-4で惜敗した。当時は巨人の宮田正典が「八時半の男」として名をはせていたが、この年の秋田高は鐙文行と大久保の二枚看板。先発した鐙を、中盤から後半にかけてリリーフした大久保は「秋田の宮田」と呼ばれるほど、活躍が顕著だった。
3年時。2年連続甲子園を目指す秋田高は、他チームから研究されたこともあり、苦労したという。初戦は大館商(現・大館国際情報学院高)に先制を許したものの、終盤に逆転。「一番、対戦したくなかった秋田商は、対戦する前に敗れて安堵(あんど)した記憶がある」という大久保の決勝の相手は、能代高だった。阪急ブレーブスで活躍した山田久志は当時、三塁を守っていた。その能代を破り、甲子園切符を勝ち取ったが、夢舞台では優勝候補の中京商高(愛知)に0-2で敗れた。
この時、大久保は学んだ。「高校野球は『守り』が重要というが、計算できる『守り』の方程式には、計算できる投手がいることが条件」ということを。 大学は明治大へ進んだ。当然、野球部に入部してそこそこできる、とは思っていた。その背景には、中学、高校と弱いチームを強くしてきた、という自負があった。が、半年を過ぎて大学を辞める決心をした。翌年に神奈川大に入学するものの、野球部には入らなかった。自身の敗北を認めた時期でもあった。
県職員として秋田へ帰り、母校のコーチを4年務め、その後、監督として9年間、指揮を執った。「伝統校のプレッシャー、監督としての重さ、生徒に勝たせてあげたい」という思いが強かった時期でもある。「勝つためには他校と同じ練習をしていても勝てない。それ以上の練習をしなくては」と感じ、選手には厳しい指導で接した。ただ、学業のことで選手の親とのはざまで、思い悩んだ。
秋田高の選手といえば、それぞれの出身中学校で成績はトップクラスの生徒ばかり。が、入学直後の中間試験の通知表を親と選手が見て、脱落する選手が目に見えて増えていた。大学進学を目指して入学する選手が圧倒的に多い秋田高で「勉強はしなくていい」とは言えない大久保は、本当に悩んだという。野球か、学業か、忸怩(じくじ)たる思いに駆られた。「(最初の中間試験を)乗り越えさえすれば、練習にも慣れるし、勉強する時間を自分でつくることもできる。何事も最初が肝心なんですよ」。
現在、県軟式野球連盟の会長職を務めて2年になるが、子供から大人まで、チーム数の減少に頭を悩ませている。いろいろな話し合いはしているとはいえ、解決策が出ていない状況だ。少子高齢化が顕著な本県だが、野球界では高齢者の大会は増える一方で、連盟としてはジュニア層の育成・確保が喫緊の課題となっている。そのために、幼稚園、小学校の低学年へ遊びの中から野球を楽しんでもらうために、県内各支部を通じて取り組んでいる。
野球の魅力を「投手の立場でいえば、試合をつくること。その分、練習は厳しいが、やりがいはある。空振りの三振を奪ったときは、最高ですね。そして、プロ野球の選手になるという『夢』を持てることも、魅力の一つかな」。
本県の野球界の課題としては、秋田で育った選手の流失を防ぐこと、球場の質や数はトップクラスなのに対して、ナイター設備が不足していることを列挙する。
「生涯スポーツとして、ナイター設備を増やしてほしい」という大久保は「野球は人生そのもの、青春そのもの。まだまだ野球をしたい、と思っています」と語ってくれた。
《編集後記》
その時代ごとに目標を持って野球に取り組んできた姿が、話を聞いて目に浮かんでくる。足の調子が悪くて、今は投球することは困難だが、その意欲は衰えてはいない、と感じる。監督当時は、かなり厳しく指導してきた。全国レベルを知るがゆえに、選手たちにも全国の舞台で勝たせてあげたい、という気持ちが強かったのだろう。県軟式野球連盟の会長として、今後の本県野球界を良い方向に導いてほしい、と願っている。
≪文・写真:ボールパーク秋田編集部≫
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大久保 正樹(おおくぼ まさき)氏 |