沢内小学校の時は「川遊び」と「野球ごっこ」に明け暮れた。船岡中学校への入学後は野球部に入るものの、成績はいつも「郡大会」で埋没。野球は好きだったとはいえ、高校入学後は、野球部には所属しなかった。就職で上京したものの、4年で秋田に帰り、昭和45年、職場の軟式野球チームに所属した。離れていた野球に再度取り組み、早起き野球などに没頭した青春時代だった。
平成3年。壮年チームの「ナイスミドル」を立ち上げた。きっかけは桜小学校PTA野球で優勝したことだった。チームメートで今大会、全県500歳野球の優勝の原動力となった藤林正樹投手と2人が中心となってチームをつくった。同8年。チームの監督を務めた。壮年の県大会での最高成績は準優勝。常に優勝を目指しての準優勝に、表彰状やカップなど、ショックのあまり、会場に忘れてきたエピソードがある。
その後、同8年には500歳野球チームの「ナイスミドルOB」を立ち上げたものの、壮年チームの監督でもあったことから、試合が重なり500歳大会には参加できない年が続いた。
そして61歳になった年。壮年チームの監督から500歳チームの監督に就任した。その就任1年目、見事に初優勝を果たした。3年目にはV2、そして今季、V3と着実にチーム力はアップし、いまや県内の500歳チームでは強豪チームに属している。
3回の優勝の中で一番記憶に残っているのが、「保坂兼也監督率いる秋田銀行を破った初優勝が、特にうれしかった」という。当時、秋田銀行といえば常勝チーム。そのチームを破ったことで、「ナイスミドルOB」は一躍、県下にその名を響かせた。
今大会のV3の要因は、投・攻・守のバランスが、これまでと比較して一番良かったことと、くじ運にも恵まれたという。壮年チームとの練習を重ねたことも、奏功した。采配にも光るものがあった。準々決勝の対角間川戦はタイブレークとなった。1死満塁から始まる打順は、任意で決めることができる。
さてこの場面。通常の考えであれば1番、あるいは3番から始めるのが常だろうが、藤原は迷うことなく2番・有光政人から始まる打順を選択した。この采配がドンピシャとはまった。結果は、有光が初球をものの見事に振り抜き、満塁本塁打を放ち、試合を決めた。
ポリシーは「全員野球」
「どの選手を起用するのか、打順は?」など、かなり気を使う部分だが、ゆえに「メンバーを組むことが一番難しい」と語り、選手の調子によっては打順の入れ替えなど、大いに頭を悩ませている。逆にエンドランが決まった時は至福の瞬間だ。「ふだんは(采配での)ギャンブルはしませんが、エンドランのサインを出す瞬間だけは、勝負師になります」(笑)。
「勝負師にとって重要なのは集中力」という考えの下、日ごろの鍛錬は欠かさない。試合の所要時間、つまり約1時間30分を集中できるようにと、一つ森公園でトレーニングをしている。「今でも安比スキー場の上から下までの約5キロのダウンヒルを一気に滑り降りてきますよ。そのくらいの体力は必要ですからね。毎日欠かさずのトレーニングは『晩酌』です」と、こともなげに語る。
野球をやってきて良かったことは、いろんな人との巡り合いだ。「人との縁は大事にしたい」という藤原にとって、うれしいことも、悲しいことも共有できる人とのつながりは、最高だ。
好きな言葉は「努力」。勝っても負けても必ず課題は残るのが野球に限らずスポーツの常道。それを克服するために練習をする。チームも自分も努力して進化する。藤原にとっては単純な言葉ではあるが、好きな言葉でもある。
野球をやってきて良かったことは? と水を向けると「野球をするためにトレーニングを積むわけだから、『健康』でいられることかな」と語り、今後の目標については「3回も優勝したし、(次の優勝を目指して)一日でも長く野球をやりたいね」。
野球とは? という問いにはこんな答えが返ってきた。「規則を守ることかな。グラウンドでは野球のルールがあるし、社会に出れば社会のルールがある。社会人としての決まり事もあるし、挨拶も含めてルールで世の中は成り立っている。野球をしたことで、はっきりしてますよ」。で、最後に「毎日の晩酌も決まり事ですよ」(笑)。
≪文・写真:ボールパーク秋田編集部≫
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藤原 廣成(ふじわら ひろせい)氏 |