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野球を始めたきっかけは、6歳年上の兄の影響かな、と話す。よく友達を誘って八橋の日吉八幡神社近くの空き地で野球をして遊んだ少年時代だった。『当時は野球くらいしか遊びはなかったんだよね』(笑)。旭北小、山王中時代のチームはさほど強くはなかった。『グラウンドが狭すぎたんじゃないかな』とは本人談。

秋田高に進学してからは、いい教師に恵まれた。特に3年時の担任だった高橋彰三郎先生には、私生活の面や野球に関しての激励など、本当に面倒を見てもらったという。

こんな記憶がある。当時の野球部監督は昭和40年、甲子園の4強に進出、秋田高の『火消し役』として活躍した大久保正樹投手。で、斎藤が打席に入った場面は無死満塁。カウントは3ボール。当然、ベンチのサインは『待て』。だが斎藤はこの場面、投手の顔を見た瞬間、『戦闘モード』に入ってしまった。結局、強振した打球は、あろうことかオーバーフェンスしてしまった。この満塁本塁打を放ったことで、大久保監督には『サイン無視』と怒られてしまった。内心、『打てる球がきているのになんで見逃すのか』と、結果はさておき、その『待て』というサインには納得がいかなかったという。人並外れた打撃センスを持ってはいたが、高校時代の3年間は、球児の夢「甲子園」には手が届かなかった。

専修大へ進学してからは、1年の春季リーグから4番を務めた。大学時代は全国各地の高校からつわものが集い、『4番の責任感、そしてライバルに負けたくないという気持ちから、今までにないほど真剣に練習に取り組んだ』という。結果、3年秋、4年秋のリーグ優勝(ベストナイン2度受賞)。明治神宮大会では準優勝し、プロ10球団からドラフト指名の打診を受けた。が、『憧れだけで飛び込む世界ではない。冷静に自分の力を鑑み、(自分の力は)それほどでもない』と決断。川崎製鉄千葉へ入社した。

川鉄千葉では現役12年間で都市対抗に9回出場し、3年間、監督を務めた。就任3年目には都市対抗で準優勝を飾ったのを最後に、社会人野球に終止符を打った。「仕事と野球の両立する厳しさを学んだ」。

これまでの野球経験の中で一番印象に残っている選手は? と水を向けると、投手では高松直志(能代高)と故・工藤幹夫(本荘高)と即答する。高松投手との対決では速球対策として、初めてバットを20センチも短く持った。また工藤投手との対戦では生まれて初めて見るシンカーに戸惑った。その後経験した大学、社会人野球でもこの2人を上回る投手と出会うことはなかった。一方、打者では新日鉄君津に高卒で入社した松中信彦(後にソフトバンクに入団)には、同じ左打者として初めて負けを感じたという。

社会人野球にピリオドを打ち、営業生活が15年経過した時、専修大の監督の話が舞い込んだ。一旦は断ったものの、最終的に承諾することにした。だが、想像をはるかに超える現状と遭遇した。最初に取り組んだのが『挨拶』。それまでの学生のそれは、「おはようございます」は「ざーす」。「こんにちは」は「ちわーす」。「こんばんは」は「ばー」。『こんなのは挨拶ではない。社会に出たらこんなのは通用しない』と感じた。


一方、指導面では、技術は下手でも真摯に練習に取り組む姿勢があったことで、選手たちを一度も叱ったことはなかった。声の出し方も分からず、自分の真似をさせた。練習のメニューも食事の改善もさせた。その努力が奏功したのか、春のリーグ戦では本塁打が0だったのが、秋には14本も放った。結果、2部で優勝し、青山学院大との入れ替え戦を制し、1部復帰を果たした。さらに翌春のリーグ戦では26年ぶりの優勝を飾り、祝賀会には1200人を超える人たちが集った。

選手にはこんな言葉で常に言い聞かせている。『近づいてくる人たちには気をつけろ』、『逆境にいるときに応援してくれる人こそ大切に』。最後にこれまで一番印象に残っている試合は、と聞くと『高校3年夏の準決勝で敗れた試合、と言いたいけど、やっぱり大学の監督就任1年目の東都リーグ1、2部入れ替え戦で勝ったことが一番だね』と話してくれた。


      

さらに野球の魅力とは、の問いには『失敗しても、また挑戦できること。これに尽きるよ』。

秋田の野球にはこんなエールを送っている。『甲子園で勝つことばかりにこだわらず、監督、選手など野球に関わるすべての人たちが日々レベルアップを目指して頑張ってほしい。決して真似をするのではなく、オリジナリティーを持った、秋田ならではの選手、チームをつくってほしい』と熱い口調で語ってくれた。

『勝つという目的の中、戦術やビジョンを監督と選手が共有して、同じベクトルに向かってまい進する。そして負けた時に振り返り、修正を繰り返す。これって『人生』と一緒でしょ!』  今は若い世代と触れ合い、成長を見ていられることに感謝している、と監督らしいコメントで結んでくれた。


~編集後記~
いつでも明るくポジティブな斎藤監督。昔、グローブにバットを通して肩に担いで闊歩(かっぽ)する『がき大将』(失礼)がそのまま監督になった感じさえする。社会人野球でも大学野球でも決してミスを恐れない、妥協しない姿勢の中にも柔軟な一面も併せ持つ。そんな親分肌の斎藤監督、今春は2部転落となってしまったが、すぐに1部復帰するに違いない。あの名将・故古城敏雄監督も専修大の監督から経大付高(現・明桜高)の監督に就任して甲子園の土を踏んでいる。是非、斎藤監督にも郷土・秋田の名物監督になってもらいたいものだ。


≪文・写真:ボールパーク秋田編集部≫

~ profile ~

斎藤 正直(さいとう まさなお)氏
昭和35年生まれ
秋田県にかほ市出身