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当時、小学校にはまだ部活はなく、毎日「野球ごっこ」で過ごしていた。本格的に野球に取り組んだのは、中学校に入ってから。ユニホームを着るのは初めてだった。父親と近所の靴屋にスパイクを買いに行ったことが、記憶に鮮明に残っている。 ポジションはショートだった。このころはまだ投手はやっていなかったが、投げることは好きだった。高校野球の監督経験者で、全県少年野球の優勝経験者は私だけでしょう(笑)。

中学卒業後は秋田高に進学して、甲子園を目指した。入学当初はショートだったが、エースの故障を機に投手をやることになった。 春先のキャンプで日本石油のキャンプに行った時、本多秀男さん(元日本石油野球部監督・秋田高OB)から投手のイロハを学んだ。そして、2枚看板で臨んだ昭和48年夏の県大会。準決勝、決勝を投げて甲子園切符をつかんだ。「おいしいところをいただきました」(笑)
秋田大学進学後は「なかなか信じてもらえないが、明治神宮大会にも出場したんですよ」。


高校野球の監督になって初めて赴任したのは当時の鷹巣高だった。グラウンドもなく練習場を求めて転々とする「ジプシー野球部」だった。バッティングセンターを借り切って練習したこともあった。 こんなこともあった。町立球場を借りて練習をしていた時、地元の小学校の練習が優先されたことは、今でも脳裏に焼き付いている。悔しかったですね。

鷹巣で5年間過ごし、30歳の時に母校・秋田高の監督に就任した。このころのスタンスは「明日につながる練習」。自分は中学、高校、そして大学と全国の舞台を経験したが、そこで勝つことは叶わなかった。そこで教え子たちには「全国で勝つこと」を目標とさせた。

技術指導では「バランス」を重要視した。あとは「目標設定」かな。選手には次につながる失敗はしてもいい、と言い聞かせていた。打撃に例えると、バッティング=振る力+とらえる力、チーム力に例えるなら、実力=持っている力+発揮する力。試合で重要なのは発揮する力でしょうね。


自分自身を振り返って見ると、言い訳をしない選手だったと思う。黙々とやるタイプかな。投げることが得意で、ショートを守っていて三遊間の深い守備位置からファーストまで、きっちりとスローイングできていたと思う。

オーダーを決めることに関しては迷うことはなかった。先発投手は、試合当日に告げていた。高校生の場合、2、3日前から言い渡すとプレッシャーからか、眠られないとかマイナス要因の方が多いという、それまでの経験値からの考えだ。


      

監督として最初の甲子園出場は、現在、秋田工高野球部監督の高田環樹の時で、部員は17名だった。この試合は、彼の同点本塁打などで勝ち上がり、選抜では本校初の校歌斉唱となった。 結局、春、夏、それぞれ1回しか勝てなかったが、開会式直後の第1試合を経験したのは私だけでしょう。開会式をベンチから見ることができるのは、感動ですよ!

大半の監督は、夏の甲子園出場を決めた喜びを「最高」と言いますが、秋の東北大会を優勝しての選抜出場もいいもんですよ。東北を制してから翌年3月まで喜びが継続して、吹雪の季節が不思議なことに苦痛を感じない。まだ「決定」ではなく「当確」の時点なのに、忘年会のシーズンなんか最高の気分だったね。

これまで指導してきた中で、一番印象に残っている選手は? と聞かれれば、佐藤幸彦(現・秋田中央高監督)かな。紅白戦でベンチ入りさえままならず、バックネット裏で涙を流している姿を見て「こいつは本物になる」と感じたね。よほど悔しかったのだろう。

試合で印象に残っているのが夏の県大会での準決勝・本荘高戦。相手投手は竹内君で9回まで1点ビハインド。2死後、ヒットで出塁し4番・小塚が逆転サヨナラ本塁打を打った試合が、今でも忘れることはない。しかしながら、決勝で中川君率いる経法大附(現・明桜)に敗れ、甲子園を逃してしまった。2日間で「天国と地獄」を味わったね。

監督としてのライバルはいなかった。あえて言うならば自分自身かな。あの人のようになりたいとか思ったこともなかったし、選手にもほかの選手の良いところは盗めと言い聞かせ、人の真似はするなと指導してきた。

AAAアジア大会でフィリピンに行った時、パキスタンの選手だった。その選手が四球を選んだ時だった。1塁に歩こうともせず、打席で「打ちたい」という素振りを繰り返す。バックネット裏からは「ルールも知らないのか」という野次が飛んだ。 こんなシーンを目の当たりに見て、体に電気が走った。いつの時代からなのだろうか。四球を選んだことを喜び、勝つことを重視した野球が浸透してきたのは…。野球はもっとシンプルに「打って」「守って」「投げて」という単純明快な競技なはずなのに、なんか野球の原点をあらためて考えさせられた瞬間でもあった。

県内で高校野球の監督に携わっている人たちには、自分のビジョンをしっかり持ってそれを貫く勇気を持って臨んでほしい。全国的に見ても結果を残している監督は、言葉は悪いが変わっている人が多い。是非、魅力ある監督を目指してほしい。人間、生意気はよくないが、監督としてなら許されるんじゃないかな。応援しますよ。

野球とは、挑戦するには最高のステージですね。最後に県民がひとつになって野球の楽しさを共感できる「野球の日」を実現できたら最高ですね

編集後記
伝統の継承が強さの源である秋田高の野球部監督や、複数校の校長を歴任した小野氏。現役監督時代の指導は、否定的な発言は避け、肯定的な巧みな言葉でその選手の良さを引き出してきたのだろう。言葉の端々からそんな人柄がにじんでくる。 昨今の社会情勢の中、学校や野球部を取り巻く環境も厳しさを増してはいる。これからの秋田の野球を考えた時、小野氏のような経験豊かな人材にひと肌も、ふた肌も脱いでもらうことができないだろうかと、ふと考える。




≪文・写真:ボールパーク秋田編集部≫

~ profile ~

小野 巧(おの たくみ)氏
昭和30年生まれ
秋田県八郎潟町出身
甲子園出場回数:夏3回、春4回
平成3年 石川国体出場
平成7年 明治神宮大会 ベスト4
平成8年 第2回AAAアジア野球選手権大会コーチ