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「体力があって初めて気力が生まれる」(上)

来る日も来る日も野球がすべての生活で、気が付けばこれまでの野球人生で半分以上が指導者、という立場で過ごしてきた。 ノースアジア大学の監督を退任してから、ようやく人並みの生活ができるようになった。 サウナに行ったり、仲間と集まったり、趣味に時間をかけたり…やっと“普通のおじさん”になれた。

高校、社会人時代の『選手』としての自分自身を『監督』の視点から振り返ってみると、気合いが入っていて、野球をする上で必要不可欠である“発声”もとても良かった、と思う。 技術面から見ても、ホームランも打っていたので、なかなか良い選手だっただろう(笑)

秋田相互銀行(現・北都銀行)から金足農業高の監督となる時はだいぶ悩んだ。 当時の菅原泰雄監督が旧秋田県立球場の管理人として異動することから、自分への監督要請が舞い込んできた。 しかし、二つ返事とはいかなかった。 高校時代の秋田県予選で秋田高と対戦し、勝利して甲子園に出場することができていたならば、すんなり断っていた。 それだけは、はっきりと言える。 あの時の悔しさを晴らす、そういう気持ちもあったが、それ以上に『甲子園』という3文字の素晴らしさに私は魅了されたのだろう。 現役としてはもう一生出る事のできない舞台。 だとしたら今度は、“指導者”という立場であの素晴らしい舞台に―。 人生には、『分かること』と『分からないこと』の2通りがある。 たった一度だけの人生をどう生きるか。 自分で選んだ道の先が、どうなるかは分からない。 だが、そのたった一度だけの人生を、私は『甲子園』という夢に賭けてみることにした。 それが監督を引き受けた理由だった。


“自分が目指す野球”をするために譲れないことももちろんあった。 「体力があって初めて気力が生まれる」、それが原点だと思っているので、生徒には厳しい練習をさせた。 ある時、1人の選手が練習中に倒れ、意識不明の状態に陥った。一時は生死の間をさまよった。 私は責任を取って監督を退任する覚悟を決め、『甲子園』は夢物語で終わったと思った。 しかし、彼は奇跡的に目を覚ました。 後に話を聞いたところ、彼は意識不明になりながらも「練習に行かなければならない」という気力があったことで生還できたのだという。 野球に対する熱い思いが、彼自身を呼び覚ました。 医師からは、「医学では説明ができない」とも言われた。 その出来事を受けて、気力と練習の大切さを改めて痛感した。 秋田の野球を引っ張ってきた伝統校である秋田高と秋田商高に勝って甲子園に行くためには、その2校よりも練習をする必要があった。 時には、「厳しすぎるのではないか」と言われたこともあった。 しかし、私を信じて厳しい練習にも耐え、付いてきてくれた選手たちがいた。 彼らを信じていたからこそ、私は周りにどんなに言われようと、絶対に妥協する事なく厳しい練習を続けた。 あの時に信念を曲げなかったからこそ、後に結果として表れたのだと思っている。


当時金足農高は、いわゆる強豪校ではなかった。 それゆえに、入部してくるのは中学校では補欠 だった選手など、南秋地区の無名な選手ばかりだった。 しかし、そんな子供たちが過酷な練習に耐え、上達し、甲子園に出る。 それもレギュラーとして。それが嬉しかった。 練習の厳しさから、入部したうちの3分の2は辞めてしまっていた。 その中で、3年間耐え、頑張ってくれた選手たちが卒業を迎え、去って行く際の達成感あふれる表情を見ると、何とも言えない気持ちが込み上げてきて…。 それも嬉しい瞬間だった。 逆に、後悔していることもある。 選手の将来を優先し、無理をさせない程度に起用していたが、そうではなく、1人の選手の将来を犠牲にしてでも使い続けていたら、もっと良い結果が残っていたのでは、と思う。 無理をして投げ続けさせて肩が使えなくなったとしても、それでチームが甲子園に出場できるのであれば… だが、やはり私にはそれはできなかった。 才能ある子はもっと伸ばす、それが私の方針でもあったからだ。 まだ使えるか、もう代えるべきか、その見極めは正直難しかった。 あとは、練習の厳しさから辞めようとしていた選手に、甘い声をかけて引っ張っておけばよかったか…とも思う(笑)


私の監督人生において一番印象に残っている選手といえば、小野和幸だろう。 高山郁夫と投げ合った時も印象に残っているが、それ以前に彼はなかなかのワルだった(笑) 甲子園には行けなかったが、ドラフト外でプロ入り。 高校時代はちゃらんぽらんだった彼が、あの厳しい広岡達朗GMのもとでコーチをやることができたのが、今でもまだ不思議でならない(笑) 彼は野球に出合っていなかったら、きっと高校も卒業できていなかったのではないだろうか(笑) 生活態度も決して真面目とは言えないものだった。 しかし、本当は誰よりも純粋な気持ちの持ち主だった。 人に弱みを見せたがらなかったので、それがあの態度につながっていたのだと思う。 逆にあの荒さがあったがゆえに、プロ入り後にうまくいったのかもしれないと今は思っている(笑)

一番印象に残っている試合は?と聞かれると、「もちろんPL戦ですよ」と答えたくなってしまうが、それでも一番は第80回全国高校野球秋田大会決勝での秋田商高戦だろう。(17-16で金足農の勝利) 場面は9回表2アウト、ランナー3塁。 同点に追い付くためには4点、逆転するためには5点が必要だった。 そこから底力を見せて試合をひっくり返して逆転勝利。 奇跡としか言いようがなかった。 9回の攻撃に入る時、円陣を組んで選手たちに伝えたのは、「田沢湖を思い出せ」。 策を伝えたわけでもなく、言ったのは本当にただそれだけだった。 その言葉に選手たちは奮い立ってくれたのだろう。 2アウト、ランナー3塁の場面は正直、「負けたな」とも思っていた。 指導者としてそんな姿は見せる訳にはいかなかったが、心の中では負けを覚悟していた。 しかしそんな考えとは裏腹に、選手たちが粘りの攻撃を見せる。 今思い返すと、あの時の私は報道陣の動きを見ている余裕があるくらいに冷静だったのだろう。 秋田商高の勝利の瞬間を収めようとカメラを構えていたのが、3点を取ったあたりから報道陣が移動を始めたのだった。 その光景を見て勝利を確信した。 長年監督をやってきたからこその視点だったのだろうと思う。


社会環境が変わるにあたり、指導法ももちろん変わっていった。 今は少子化という社会現象が起きていることもあり、子供が多かった時代に比べると、親の過保護が目立つように感じる。 才能を感じ、良い選手になるように指導したいという思いから厳しい練習を課したり怒ったり、時には手を上げることもあった。 昔はそれが普通だった。 しかし、時代が変わるにつれ、その指導法は通用しなくなった。 「監督が自分ばかりをいじめる」、そうとらえられてしまうようになった。 そして親にも気を使わなくてはならない。 育てたい一心で厳しく指導に当たっていたが、それが通用しなくなり、自分自身が選手と少し距離を置くようになっていった。


・・・続く



≪文・写真:ボールパーク秋田編集部≫