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小学校2年時に2つ上の兄に連れられて町内野球に参加したのが、野球を始めるきっかけとなった。ただしその時は、ライトを守っていたが、反対を向いて草むしりをしていた(笑)

小・中学校と野球を続け、高校への進学時、名門・秋田商から誘いを受けた。が、断った。亡き父の強い意向だった。地元の大館鳳鳴高、そして大学は立正大の門を叩いた。初めて神宮球場の土を踏んで感動するはずが、場内アナウンスで『大館(だいかん)鳳鳴高校出身』とコールされ、初出場に盛り上がるはずが逆にテンションは下がりっぱなし。また、試合とは別に年時の大学生活は本当に厳しかった。特に先輩、後輩との上下関係にはつらい思い出ばかりである。今、振り返ってもあの当時には戻りたくはない。

サンワード貿易(札幌市)に就職した1年目だった。家業を継ぐため退社せざるを得なかった。地元・大館市に帰ってからは、母校のコーチを14年、その後は大館リトルシニアの監督に就任して、10年の月日が流れた。

母校のコーチに就任した当時は、監督と生徒のクッション役として指導に携わった。練習では新しい風を吹き込もうと、いろいろなアイデアを凝らして取り組んだ。目標はまだ出場経験のない「甲子園」という3文字のために。

14年が経過した時だった。『家族のために』とコーチを辞任した。ただ、野球から身を引いたとはいえ、指導の醍醐味をしってしまった血は騒いだ。そのころ、地元・大館ではリトルシニアの開設準備室を立ち上げて、1年後に活動を計画する予定だった。地元の人たちが背中を押してくれ、そして家族の理解もあって監督を引き受けた。高校生から小・中学校生へ指導の対象は変わった。

私の指導方針は、高校野球に子供たちを送り出したいことから、練習ではすべてのポジションを経験させること。その理由は、私が決めるポジションと高校の監督が決めるそれと、同じとは限らない。どこでも守ることができる環境をつくってあげることが重要と考え、基本の反復とさまざまな経験を積ませている。そして投手には投げ込みはさせないことを留意している。将来のある子供たちに、投げ込みの弊害よって肩が壊れることを危惧してのことだ。『勝敗』よりも『将来』が最優先。

その一方で、精神面での強化にも取り組んだ。そして様々な角度から選手を俯瞰(ふかん)し、情報収集から采配まで、こだわりをもった指導を心掛けている。子供たちには先取点へのこだわりを説き『バントは日本一に』を合言葉に練習に取り組んでいる。

目指すものは、子供たちが地元の高校でスタメン、そして主軸として甲子園に出場すること。そして、指導した子供たちが練習を手伝い、酒を交わすことが楽しみのひとつでもある。

鳳鳴高時代のコーチを務めた14年間、3人の監督にお世話になった。守備重視の監督、打撃重視の監督、頭で考える野球を、という監督。それぞれの長所をミックスして「奥村流」として引き継ぎ、実践していきたい。

リトルシニアは県外に試合に出ることが多い。東北大会など、子供たちの交流が増えたことで、子供たちが高校進学後、高校名でいわゆる『名前負け』することが少なくなった、と感じる。私自身も野球の情報が入りやすくなった分、指導に活かしていきたいと思っている。

活動の環境面では本当に恵まれている。大館市をはじめ、企業、そして地域の皆様の協力には感謝している。また野球という競技に対しても「自分をまじめにさせてくれた手段。もし野球をやってなければ、とんでもない人間になっていたかも」と感謝する。

編集後記
強面の風貌とがらがらの声は迫力十分。しかし、教え子からの信頼は厚く、力量は申し分ない。さまざまな情報を吸収する能力に長け、常に子供たちを最優先に物事を進める。将来を見据えた指導は、ほかの指導者にとっても格好の範となるはず。地元に愛されて根付いた大館リトルシニア。今後、ますます発展することを願っている。


≪文・写真:ボールパーク秋田編集部≫

~ profile ~

奥村 渉(おくむら わたる)氏
昭和42年生まれ
秋田県大館市出身
大館リトルシニア 監督