menu

TDKを定年退職し、現在は秋田県野球連盟の副会長、本荘由利リトルシニアの会長を務めています。
秋田県の高校野球の強化プロジェクトにも携わっています。

監督に就任する前のTDK野球部は、なかなか結果が出ずに伸び悩んでいました。 「監督をやらないか」と打診されたときは、腹を決めましたよ。 監督時代の指導方針として、チーム作りの基本となったのは、『投打の柱を中心としたチーム力の強化』でした。 実績も積んでいて、キャリアもあり、年齢的にもベテランの域に入っているようなメンバーが揃っていたので、“投打の柱”をきっちり確立する必要があると思い、投手の柱には野田 正義、打の柱には佐々木 弥と考え、チーム作りを進めました。 2人には、「あなた達には、中心となってチームを引っ張っていってもらわないといけない」、「2人の背中を見て他のナインは付いていく」と伝えていました。 練習でも大会でも、『グラウンドに出たら戦いだ』、『ユニフォームに袖を通したら、妻帯者だろうが独身者だろうが、野球に没頭する』ことを徹底させました。

選手の育成として、コーチにいつも言っていたのは、「長所を伸ばす練習をさせるように」でした。 どうしても欠点ばかりに目が行きがちなのですが、大卒くらいの年齢の選手達は、クセがなかなか抜けないので、それを直させるよりも、どの選手も1つ2つは必ず長所を持っているので、それを伸ばす練習をするべきだと思っていました。 高卒の選手についてはまだまだ修正の余地がありますけどね。

試合前にオーダーを組むのはやっぱり、大変でしたね。 私一人で決めていたわけではありませんが、先発ピッチャーはほとんど私が決めていました。 野手に関しては、コーチのアドバイスを聞いていましたが、最終的に私が決断していました。 試合中のピッチャーの交代か続投の決断は一番難しかったです。 都市対抗野球では、葛藤もたくさんありました。 『この都市対抗野球で柱になる投手は『野田しかいない』と思ってローテーションを組みました。 ピッチャーの調子は、選手を長いスパンで見ていたので、腕の振りを見ればだいたいわかりましたね。 なので、采配に関しては絶対の自信がありました。 継投ミスはほとんどなかったと思っています。 ただ、都市対抗野球本大会の決勝前夜だけは、誰を先発で起用するのか、かなり迷いました。 迷いに迷って、その夜は監督人生で唯一、眠られない夜を経験しましたよ(笑) 先発ピッチャーを伝えたのは、翌日の昼頃でした。 ピッチャーは孤独だとよく言われますが、監督も同じなんですよ(笑)

試合中、選手たちは監督の事をしっかり見ていて、顔色をうかがっているので、バタバタした姿は見せたらいけないんです。 監督がどっしり構えていないと、選手が不安になってしまいますから。 攻撃のサインは全部、私が出しました。 東北二次予選では、スクイズも2つ3つやりました。 これは自分の野球観ですが、9イニングで1点1点、コツコツ点数を取っていかないと勝てないので、点数を取るために、走者を前の塁に進めるために、バントも多用しました。 試合中は、対戦相手が嫌がること、そして常にプレッシャーを与えることを徹底的に仕掛けていきました。 試合の流れを自分のチームに呼び込むために、“流れがこちらに向くような采配”を心掛けましたね。 そのために、選手を交代させることも多くありました。 私のひらめきや勘、その時の選手のコンディション、選手のタイプなど、様々な視点で見ていました。 野球には、『これが正解』というのは絶対ないので、いかに適材適所に選手を配置できるかがポイントです。 “船木野球”は、『守りからリズムをつくって攻撃に繋げる』、というのが真髄となっています。 野球は、ピッチャーを軸に守りさえしっかりしていて、相手に点を与えなければ負けることはないんですよね。 なので、守りを完璧にするために選手たちにはバッティングよりも守備を重点的に練習させました。

秋田の野球界は低迷気味で、中学生の才能ある選手がどんどん他県に行ってしまっている状況です。 その理由として、選手が、「秋田の高校野球は魅力がない」と言うんですよね。 私自身としては、秋田にも、良い野球部がたくさんあると思っているのですが…。 何とかして県外への流出を止めることはできないかな、と思っています。 なので、秋田県の高校野球の更なる強化を目指し、全国の有力チームと互角に戦えるチームをつくっていってほしいな、と思っています。

私にとって野球とは、成功もあり、失敗もあり、人生そのものです。

≪文・写真:ボールパーク秋田編集部≫

~ profile ~

船木 千代美(ふなき ちよみ)氏
昭和29年 8月 20日
秋田県若美町出身
1971年 秋田市立高校(現中央高校)で夏の甲子園に出場
1972年 2年連続で甲子園出場
1973年 法政大学に進学。江川卓らと共に東京六大学野球リーグ連覇に貢献
1977年 熊谷組に入社
1981年 秋田に戻りTDKに入社
1985年 現役引退
1986年 TDKのコーチに就任
2005年 TDKの監督に就任
2006年 チームの改革を行い、監督就任1年目で都市対抗野球大会に出場。
東北地区初の優勝を果たし、秋田の地に黒獅子旗をもたらした。