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Q  野球はいつから始めたのか?
A  五里合小4年生から双子の兄弟、正人と一緒に始めた。
当時は、近くのJAの壁にボールを投げては遊んでいた。
田舎ではそれしか遊びがなかった(笑)。
小学校では全県大会に出場したが、上位進出を果たせなかった。
中学校では地区予選で敗退。
ただ、この頃は「プロ野球選手」を夢見ていた。
捕手にプロテクターを付けることが義務付けられたのも、この時期。
私が捕手になったのも、捕手に憧れた、というよりもプロテクターに憧れた、という思いから。

Q  高校時代は?
A  経法大付高(現・明桜)に兄弟で入学した。
特待生で入学したものの、練習初日で実力の差を痛感した。
周囲の同期を見渡しても「投げる」「打つ」「走る」などすべてにおいて、自分は劣っていた。
特待生で入学した関係上、「やめられない」と精神的にも追い込まれた。
それでも「自分が生きていく道はないものか」と試行錯誤の日々が続いた。
2年夏の県大会直前にイップスになり悩んだ。
投げる恐怖と戦いながら悪戦苦闘した。
練習のとき、暴投の連続で、鈴木寿宝監督(現・秋田修英高野球部監督)から4日間、グラウンドの隅っこで正座を言い渡された。
このときが、高校時代で一番つらかった時期だった。
そして夏の大会のベンチ入りの発表があった。
自分はイップスもあって当然、外されると諦めかけていたが「背番号13」をもらった。
自分はもちろん、周囲も驚いた。
監督に名前を呼ばれた時でさえ、返事もできないほどだった。
ベンチ入りから漏れた3年生からも「何で?」という声が上がるほどだった。
その時は、「ブルペンキャッチャーかな」という認識だった。
が、県大会の初戦で先発投手は1年生の中川申也。
そしてスタメンの捕手はなんと、自分だった。
自分の送球に不安を抱えながら、早く試合が終わらないかを考えていた記憶がある。
そして「あれよ、あれよ」という間に決勝まで勝ち進み、気が付いたら優勝。
周囲の視線は「1年生投手」の中川に注目がいって助かった。

Q  甲子園では?
A  県大会同様、送球の不安は抱えていた。
しかし、中川投手の活躍もあって準決勝まで進んだ。
帝京(東京)に敗れたとはいえ、経法大付として初の4強進出を果たした。
自分は送球の不安と打者への組み立てを考えることで、頭の中は精いっぱい。
甲子園の独特の雰囲気に浸る余裕すらなかった。
衝撃的だったのは、対戦したチームの選手みんなが、足が速かった。
内野ゴロすべてが、間一髪のプレーだった。
今思えば、試合に集中できたことで、イップスの不安は解消されていた。
高校時代は、この大会を含めて3季連続して甲子園に出場した。

Q  忘れられない試合は?
A  3年春のセンバツ大会は、前年夏のメンバーがバッテリーを含めて4人残ったことで、目標は「甲子園で優勝」だった。
初戦の相手は鹿児島実業。
7回まで4点リードでこのまま順調に終わるのかな、と思った。
相手が代打攻勢をかけてきたこともあって「あきらめたのかな?」と察知したが、その代打陣が連続して二塁打を放つなど、一気に5点を奪われて逆転負けを喫した。
優勝を目指したチームが、まさかの初戦敗退はさすがにショックだった。
中川投手も鹿実・内之倉隆志(ダイエー)に2ストライク後の左投手の決め球を、レフトスタンドに運ばれた。
生涯初の本塁打を喫し、リズムを崩してしまった。
いろんな意味で勉強になった試合となった。

Q  大学野球は?
A  経法大へ進学したが、ここでも高校入学時同様に、力の差を感じた。
甲子園に出た、という実績は関係なかった。
相当な練習をしなければ、と感じ取ったものだ。
高校時代の全体練習とは違い、大学のそれは個人での練習が中心。
本当にこつこつと練習した。
結果、2年時の富士大との北東北の代表決定戦で4点ビハインドの最終回、5点を奪って逆転勝ち。
神宮への切符を勝ち取ったことは最高の思い出となった。

Q  コーチや監督時代を振り返って
A  大学卒業後、高校の職員となり母校のコーチに就任した。
その後、大学の監督を2年間務め、退職した。
高校の指導では個々の目標をしっかり設定させて、現実を踏まえた指導を心掛けた。
大学での指導は、入学してくる選手たちの「燃え尽き症候群」に手を焼いたものだ。
2年間という短いスパンだったことから、思うような指導ができなかったことに悔いが残る。

Q  選手の指導・育成はどのように
A  現在は「NPO法人 スポーツコミュニケーション」で子どもたちを指導している。
限りない可能性を秘めている子供たちの指導は、神経をつかう。
私自身がイップスで悩んだことも、そして克服したことは、指導者となった現在、生かされていると思う。
指導者としての留意点は、子供たちの気持ちに寄り添った指導を心掛けている。
指導している子供たちの中から将来、成田翔投手に続く第2のプロ野球選手が出てくれれば最高だと思う。

Q  野球の魅力は?
A  できないことを恥ずかしく思わないで、それを克服する努力をすれば道は開ける。
まっすぐ立ち向かうことのできることが魅力人かな。

Q  杉本さんにとって野球とは?
A  ここまで野球と関わってくると「野球」と書いて、「スギモト ムネト」と読む感覚かな。
人を狂わせる不思議な魅力が野球にはある。
その答えは永遠のテーマで、一生見つからないのかも―。



《編集後記》
自身の経験を生かし、子供たちを指導する姿は「野球小僧」にふさわしい人物だ。
双子の兄弟で比較されることが嫌な時もあったことだろう。
いつの時代も逆境をチャンスととらえ、立ち向かう姿は子供たちの「お手本」になることだろう。
秋田のこれからを担う子供たちの基礎をしっかりと築いていただきたい、と念じている。

≪文・写真:ボールパーク秋田編集部≫


~ profile ~

杉本 宗人(すぎもと むねと)氏
秋田県男鹿市出身
昭和47年生まれ
五里合中―経法大付高―経法大
高校時代は2年夏から3季連続して甲子園出場
大学では2年時に明治神宮大会出場
経法大付高コーチと経法大の監督など歴任
現在は秋田市内のスポーツ店に勤務
NPO法人スポーツコミュニケーションで子どもたちを指導