Q 野球をはじめたきっかけと時期は?
A 2006年のWBCを見て、野球がやりたくなりました。
それからは遊びで友達と野球をしていましたが、小学4年生のころにスポ少に入りました。
小学6年生でレギュラーになり、1番でショートを守っていました。
中学生のころは、7番でショートでした。
Q 戦績は?
A 中学2年生の秋田市の新人戦では優勝し、県大会で準優勝でした。
市中総体は優勝、県大会も優勝し、東北大会は準優勝で、全国大会にも出場することができました。
Q 秋田南高への進学動機は?
A 中学3年生のときに高校の秋の大会をいろいろ見て回って、秋田南が一番打っていた感じがしたんです。
今もTDKで活躍している中島和俊投手のピッチングと、チーム全体のバッティングを見て、“この学校が甲子園に一番近い”と思って決めました。
Q 高校時代のポジションは?
A 1年秋からベンチ入りして、ファーストを守っていました。
2年春からはレギュラーに選ばれました。
打順も最初は7番でしたが、1番や2番、時にはクリーンアップも任されました。
3年の春からはずっと1番ファーストでした。
Q 高校時代の戦績は?
A 2年夏は、成田翔投手率いる秋田商に決勝で敗れ、甲子園出場の夢は叶いませんでした。
甲子園に行けるとしたら、2年の夏だ、とずっと思ってきたので、本当に悔しかったです。
あと一歩のところまで進めたのでなおさらでした。
成田投手のスライダーはやっぱりすごかったですよ(笑)。
3年夏は、今もTDKで活躍している小木田敦也投手率いる角館に初戦敗退でした。
Q 高校野球の思い出は?
A 2年春の県大会での秋田商との準決勝です。
その試合の3打席目で左中間への2塁打で2打点をあげました。
そのときに石川聡監督から、「成長したな」と褒めてもらったことが一番うれしかったです。
Q キャプテンをやっていて大変だったことは?
A 2年秋からキャプテンをやらせてもらっていましたが、勝てないことへの責任が大きかったです。
口で言うよりもまずは結果を出そう、と思い、誰よりも練習をしました。
その姿を見て、他の選手たちもついてきてほしかったんです。
結局それがプレッシャーとなり、あまり打てなくなってしまったりもしましたが(笑)。
それでも心掛けたのは、“口で言うより態度で見せる”ことでした。
Q 高校野球終了後の進路は?
A 引退してからは、なかなか気持ちの切り替えができず、やりたいことも見つけられないまま中途半端な状態が続いていました。
結局、秋田市役所の臨時職員として勤務しました。
市役所の野球部に入って、野球は続けていました。
Q アメリカへ行こうと思った経緯は?
A もう一度、硬式野球をやりたい、と思ったからです。
でも、日本でやるつもりはありませんでした。
アメリカの野球は、型にはめずに自分の野球観を大事にしながらできる、と思っていたからです。
野球を続けるのであれば、アメリカで自分の力を試してみたい、という思いが強くなっていきました。
また、高校生のときにB3STARSの砂田達也監督から指導をしてもらっていたのですが、自分のことを良く分かってくれて、1人1人をきちんと見て的確なアドバイスをしてくれました。
個性を大事にしてくれる指導が自分には合っていました。
アメリカで野球をやってみたいと思っていた時に、大学の合同トライアウトがあることを知りました。
「これしかない」と思い、市役所を退職し、9月にトライアウトを受けに行きました。
アメリカ行きについては、もちろん砂田監督にはすぐに相談しました。
「頑張ってみろ」と背中を押してくれました。
もちろん両親も賛成してくれました。
Q トライアウトのときにアピールしたことは?
A バッティングです。
正確性、打率が一番のアピールポイントだと思っています。
Q 今後のスケジュールは?
A 内定をもらった大学があったので、これから入学の準備をします。
入学は、来年の9月を予定しています。
入学前でも試合に出られるチャンスがあるので、まずはそこを目指します。
その前に、大学に入るためには、英語のテストに合格しなければならないので、今は英語の勉強を必死に頑張っています。
Q これからの目標は?
A 2年制大学に入学する予定なのですが、そこで結果を出せば4年制大学への編入も可能なようです。
編入後も結果を出し、全米ドラフトにかかることが目標です。
必ず実現できると思っていますし、みんな応援してくれているので、「やるしかない」と思っています。
Q 天貝さんにとって野球とは?
A 「生きる活力を与えてくれるもの」です。
なくてはならないものですね。
≪文・写真:ボールパーク秋田編集部≫
~ profile ~
天貝 音斗(あまがい おと)氏 秋田県秋田市出身 平成10年生まれ |
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