<きっかけ>
小学3年生のころから毎日、田んぼで三角ベースをして遊んでいた。本格的に野球を始めたのは中学生になってからだ。グローブも中学校に入り初めて買ってもらった。宝物だった。
1、2年時は捕手、3年時は投手だった。中学の1学年先輩には三浦第三(故人)がいた。3年時には全県大会出場を果たしたものの、1回戦敗退。その試合、雨でグラウンド状態は最悪、足首まで泥につかり、我慢できずに主審に整備をお願いした。この時、すぐに対応をしてくれた審判員に感謝の思いと同時に「選手の気持ちがわかる審判員」に憧れを抱いた。
<厳しかった3年間>
高校は強豪校だった地元の大曲農業に進んだ。当時の練習は厳しかった。チームの誰よりもたくさん練習をしたが、試合に出られるようになったのは2年の秋からだった。毎日、300球の投球練習と走り込み。水溜りの水でさえ飲みたいと思った。負けたときは、「俺のせいで負けた」と他の部員たちに申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
結局、3年間一度も甲子園に出場することはできなかったが、厳しい練習にも耐え、心も体も鍛えられた。当時を振り返ると、3年間でスピードもコントロールも自分の目標とするレベルまで到達できなかった。厳しい練習をこなすのに精一杯で、気持ちに余裕がなかった。
高校を卒業して2年後、大曲農業が選抜甲子園に初出場する。後輩たちの頑張りは、本当にうれしかった。
<30歳の転機>
卒業後に就職し、各地の現場を任され、仕事の忙しさなどで大好きな野球が出来ない時期もあったが、30歳になったのを契機に、再び「野球」への思いがよみがえった。
軟式野球チームの横手中央クラブを引き継ぎ、優秀な選手に声をかけ、大型補強を慣行し、チームの強化に乗り出した。
同時に審判の道へも進んでいった。その理由は、中学の県大会での審判員の対応だった。「選手の気持ちがわかる審判員」への思いは忘れることなく、ずっと〝心の中〟に残っていた。
<自信のジャッジ>
昭和53年に2種審判員を取得し、59年に1種を取得した。審判員をしていて、記憶に残っている試合は、平成4年の夏の県予選。県立球場での秋田商高対湯沢商工高の試合だ。
湯沢商工の攻撃でランナーは2、3塁。打球はレフトへのライナー。この試合、2塁塁審をやっていた。内野と外野の境目の芝の段差が気になり、通常よりも深くポジションを取っていた。その事が功を奏し、斜め45度の角度から、ショートバウンドでの捕球がはっきりと確認できた。当然、両手を広げてセーフのジェスチャーをした。湯沢商工に2点が入った。試合は5対3で湯沢商工の勝利。しかし、観客やテレビの解説者までもがミスジャッジだと騒ぎ出した。八橋球場で待機をしていた当時の常世正道審判部長までもが騒ぎを聞きつけ県立球場に駆けつけてきた。
このプレーが夕方、テレビのニュースで放送された。それは、はっきり〝ショートバウンド〟で捕球している映像だった。自信をもって下したジャッジは正しかった。
この一件で感じたことは、秋田商に不利なジャッジをしたことへの不満の声だった。あの頃はまだ、秋田市内の強豪校が有利になるジャッジを下す風潮が少なからずあったと思われる。
<第ちゃん…>
「審判員は公平でなければならない」。審判部横手支部長になり、このことを強く唱えた。
今だから言えるが、球場で秋田商の三浦第三監督を「第ちゃん」と一度だけ呼んだことがある。審判員に厳しいことで知られていて、審判部で恐れられていた三浦監督に「第ちゃん…」周囲の審判員たちになんで?と羨ましがられた。(笑)
<記憶に残る選手>
記憶に残っている選手は、秋田工高が甲子園に出場したときのエースだった川邊忠義投手(元・巨人)。横手市で工業高校大会の試合が行われたときに、そのスケールの大きさ、迫力、そして速球にビックリした記憶がある。
これまで野球に携わり、「人と人とのつながり」の大切さを学び、「人の優しさ」を感じた。
審判員へは、公平にルールどおりに判定するように唱え続け、これまでの県北、中央、県南、地区の垣根が払拭されたと感じている。
<今後の野球界>
これからの秋田の野球発展には、「まずは子供を集めること」そして、技術だけではなく、理論やセオリーを含めて指導できる「指導者の人材育成」が最重要課題だと感じている。
「打つ」「投げる」「走る」は確かに重要だが、それだけではなく、目的や理論をわかり易く説明し、指導できる人材が育ってほしいと願っている。
<次は日本一>
〝金農旋風〟で、本当に昨夏は盛り上がった。
野球がこんなに盛り上がったことは、うれしい限りだ。重要なのは、1年で終わることなく、続けて盛り上げていけるように金足農高を含め、昨年の成績を超える高校が出てくることを楽しみしている。
野球とは「人生」。これほど人の心を動かし、感動を与えるスポーツは他にはないと思っている。だからこそ、野球に関わるすべての人に、「努力」してほしいと願う。
≪文・写真:ボールパーク秋田編集部≫
~ profile ~
齊藤 實(さいとう みのる) 昭和16年生まれ 秋田県大仙市出身 花館小―花館中(現・大曲中)―大曲農高-大曲農高農業土木専攻課 伊藤建設工業株式会社 代表取締役会長 秋田県野球協会常任理事 秋田県軟式野球連盟副会長 |