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秋田市で野球用具の専門店を開業したのは、28歳のときだった。当時はまだ、大型スポーツ店も少なく、(経営が)ここまで順風満帆に来ることができたことは「たまたまタイミングがよかったから」。

それまでの県内のスポーツ店は、冬に野球用具の需要が少ないと考えられ、軒並み、各店の冬の店内はスキー用品が並んでいた。そんな光景を見て、秋田市内のスポーツ店に勤務していた千葉さんは「野球部は冬も練習をしているのに、なぜ(野球用品の)売り場がないのか」と不思議に思っていた。

開業するまでには、さまざまな野球関係者に相談した。「応援するよ」と激励してくれる人もいれば、「1年もつのか」という辛辣(しんらつ)な言葉を投げかけられたこともあった。店舗を構えるにあたって、スポーツ店時代に培った用具の修理とメンテナンスを習得したことが、営業の「武器」となった。

自身、野球経験は皆無だ。その分、取引のある学校の監督やコーチ、さらには顧客から「野球のいろは」を学んだ。用具の修理に関しても、車に道具を積み込んで、練習を見ながらその場で修理をした。持ち帰ったときは、翌日の練習に必ず間に合うように努力した。

修理にあたって一番心掛けたことは「ミシンの縫い合わせや、グラブのひもを変えたことで、型が崩れないようにすること」と語る。出来上がりを見て、選手が喜んでいる姿は至福の瞬間でもある。

開業当時、金足農が初めて甲子園のセンバツ大会に出場した昭和59年。決定した直後に注文をもらったことは、今でも鮮明に覚えている。また、同61年の秋田工の出場時。納品が秋田市ではなく、大阪となり、果たして間違いはないのか、全ての商品をチェックした。が、川辺忠義(元・巨人)のユニホームのパンツのサイズが合わず、すぐに直しに出したことも苦い思い出だ。「ちなみに、開会式は間に合いましたよ」(笑)。あれやこれやで、秋田市内の高校とは、ほとんど、取引するようになった。

「甲子園出場回数は約40回」。この数字は、千葉さんが聖地へ足を運んだ回数である。出場校に帯同しているときは、開会式から練習、そして試合と、ほとんどチームと行動を共にしている。この時代、原田知世の「私をスキーに連れて行って」が流行っていたが、千葉さんの場合は「お客さんが、私を甲子園に連れて行ってくれた」(笑)。

これまで仕事を通じて印象に残っている選手は数多くいるが、その中でも石川雅規(秋田商―ヤクルト)、後藤光尊(秋田―オリックスー楽天)、小野仁(経法大付―巨人―近鉄)らが、グラブに対するこだわりが強く、特に印象に残っている。「優れた選手は、用具に対して強いこだわりを持っていることが印象的。(仕事を通じて)関わった選手がプロ野球や大学、社会人で活躍する姿はうれしいですね」と、ほほを緩める。

悩めることもある。県大会での準決勝、あるいは決勝で取引のある学校同士の対戦だ。「できれば両チームを勝たせてあげたいのだが…。勝負の世界は厳しいからね」。試合後、敗れたチームへ挨拶に出向く。なかなか声を掛けることができないシチュエーションのなか一言、「ご苦労様」だけ伝えるという。

道具は年々”進化”している。以前は認められなかった皮手袋の使用が可能となったり、アンダーシャツもパワーシャツに様変わりしてきた。その一方で、ルール変更や時代の流れで用具も変わる。そのたびに各学校からの問い合わせがある。「(用具の)情報を早めに察知しておかないといけないので、苦労はある」

うれしい出来事もある。それは、かつては高校球児だった人が子供を連れて来店してくれることだ。なかなか名前を思い起こせないこともあるが、そんなときは、その時代の投手の名前を聞くと、必ず思い出すという。「不思議ですね」。もう一つ。昭和61年には都市対抗(後楽園球場)に秋田相互銀行が、夏の甲子園には秋田工が出場したが、大学は全国大会に出場できなかった。高校、大学、そして社会人とすべてのカテゴリーで同じ年に全国大会へ出場できればと思いを寄せる。

これまで一番印象に残っている試合は、平成24年夏の県大会での秋田商VS能代商(現・能代松陽)の一戦だ。最終回、逆転サヨナラで秋田商が甲子園を決めた戦いを「あれほどドラマチックな試合はなかったし、これぞ『THE高校野球』だと感じました」という。

最後に「今まで、本当にお客さんに恵まれて、ここまでくることができました。野球界の絆の強さには、感謝しかありません。野球は生活の糧(かて)でもあり、いい思い出もたくさんできた。(野球の)醍醐味を教えてもらい、生活と切りはせないものです」と締めくくった。



≪文・写真:ボールパーク秋田編集部≫

~ profile ~

千葉 典生(ちば のりお)氏
昭和29年生まれ
秋田県秋田市出身
野球専門店「千葉」経営