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野球は戸島中学校と職場での夕暮れ野球ぐらいしかやってないが、大好きだった。それでも、さまざまな人と野球が縁で知り会うことができた。審判になったきっかけは、昭和45年、故・及位博さん(元 県協会審判部・部長)から勧められて、2種審判員を取得した。年間100試合ぐらい携わり、同47年には1種審判員を取得して高校野球・社会人をメーンに審判をするようになった。試合数は少なくなったが、それでも年間50試合は携わった。

「全県おはよう野球」は、第1回から大会役員として参加している。現在では最古参となり、大会運営を支えている。大会当初は秋田市には4ブロックあり、参加チームが130チームもあった。少なくなった今では、考えられない参加数だった。

青森で行われた高校野球の春季東北大会へ派遣されたときがあった。本県からは能代と秋田南が出場、能代が優勝した大会だった。当時、他県に派遣されることは審判員として周囲から認められたことを意味し、光栄に思い一段と気合が入った。

記憶に残っている試合は、二ツ井高が初めて参加した大館南高戦で球審を務めたこと。二ツ井高の初陣に参加できたことと、朝日新聞の全国版に写真が載ったことがうれしかった。中学の全県大会決勝戦、城南対山内で負けた山内の中川申也投手(のちに阪神)が閉会式の最中に疲労困憊(ひろうこんぱい)で倒れたことも記憶に残っている。高校野球では県大会決勝の際、秋田対能代商(現・能代松陽)で秋田の太田政直投手が水浸しのマウンドで苦労していたときに三塁審判をやっていたこと。(能代商が甲子園初出場) もうひとつ、準決勝の金足農対経大附(現・明桜)戦で球審を務められたことも印象深い。満員の八橋球場、審判として準決勝・決勝というステージに立つことを目標にしていたので、うれしかった。
選手では、投手は高山郁夫と山岡政志(秋田商)、松本豊(経大附)のボールの切れを見て上で通用する選手だと感じた。打者では武藤一邦(秋田商)、石井浩郎(秋田)の考えられない打球に驚いた。石井が構えたときに、グリップの位置がホームベースにかぶっていて見づらかったのを覚えている。審判をやっていて間近で見られたことは審判冥利に尽きた。

野球の審判は難しく、間違いはある。秋季中央地区大会で金足農対経法大附戦での満塁の場面、打者が内野ゴロを打ち、ホームで封殺のとき、捕手が捕球か落球かで嶋﨑久美監督と鈴木寿宝監督両者ともに引かず、20分以上の中断があった。結局アウトの判定をセーフに覆した。このとき1塁審判をしていて責任審判でもあったため、説明を求められた。判定を覆したが自分の目に責任を持った。試合終了後は、経法大附の父兄や高校野球ファン、観客から囲まれて2時間球場を出ることができなかった。審判をやっていて「はじめて殺される」と思った瞬間であった。

審判をやっているころは、自身の体調に気を使い、前日から水分を控えたたり、試合開始1時間前から準備をした。毎回心掛けていたことは「判定を急がないこと」だ。基本ではあるが、実際、試合中はそう簡単にいかないところが難しいところでもある。

今までうれしかったことは、八橋小学校で野球部のコーチをやっていたときの教え子が、秋田工高と秋田南高にそれぞれ進み、昭和61年夏の決勝戦で対戦し、1塁審判として関わり合えたこと。結果は秋田工高が甲子園に出場。「子供の成長した姿を見られたし、教え子が甲子園出場なんて、こんなうれしいことありません」。

今の監督は大人しく、個性の強い監督がいなくなった。三浦第三監督、嶋﨑監督、塚田丈也監督のような監督もいないと寂しい感じがする。「勝負に厳しかった分、勉強にもなりましたよ」。判定に対して、しつこく抗議する選手もいなくなった。昔は、判定に不服があれば、「同じコースに何球も投げ続けるピッチャーとかいたけどね」。

現在は審判を“卒業”して、県軟式野球連盟の役員として大会運営のサポートをしている。この仕事も審判をやっていた事が役立っている。決まったルールの下で大会を運営しなければならないし、約束ごとも数多くあるが、選手や審判、関わるすべての人がベストで野球をできるようにサポートすることが今の楽しみだという。「やっぱり野球が好きなんでしょうね」。

野球に熱中してきた分、家族にはさんざん迷惑をかけた。とくに奥さんには感謝している。4月から11月までの土・日は、ほとんど家にいないので苦労をかけている。「多分、あきらめられました」。(笑)

野球とは、仕事の次に関わりが長く。切っても切り離せない。家族には迷惑を掛けているけど、「野球には迷惑を掛けてないでしょう(笑)」。



≪文・写真:ボールパーク秋田編集部≫

~ profile ~

鈴木 鉄三郎(すずき てつさぶろう)氏
秋田県秋田市出身
県軟式野球連盟 理事(事務局長)