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昔は遊びといったら野球しかありませんでした。野原でよく裸足(はだし)のまま遊んでいましたよ。中学校から野球部に入ったんですが、地区予選で敗れて全県大会への出場は叶いませんでした。

高校は秋田工に進み、2年生から正選手として出場し、3年生では1番でセンターを守り試合に出場しましたが、ここでも甲子園という舞台を踏むことはできませんでした。

就職は日本鉱業㈱船川製油所(現JXTGエネルギー・ENEOS)に入り、ここでは仕事の傍ら、軟式野球をやっていました。私は投手としてならしたものですよ。35歳になった時、今度は審判を目指しました。そのきっかけは、当時の審判の技術があまりにも下手だったからですよ(笑)

審判員になったものの、43歳の時、東京勤務となり神宮球場のグラウンドに立つことを夢見て、東京都高校野球連盟に所属しました。休日はほとんど審判の活動をして、年間60試合ほどこなしていました。秋田に転勤で戻った時にも、休暇を利用して審判をするために上京しました。10年目の夏の西東京予選では、神宮球場で開会式直後の開幕戦を経験しました。  「10年間まじめに務めたご褒美だと思いました」というほど感動しました。

63歳を機に今度は審判から公式記録員を目指しました。勧めてくれたのは、秋田県で記録員としては初めて都市対抗野球の本選を経験した、当時の県連盟の大高政光さんでした。 ここからは猛勉強でしたよ。球場へ足しげく通い、テレビで大リーグや日本のプロ野球中継を活用して、年間130試合はスコアを書いていました。そして1年後、日本野球連盟東北地区連盟から公式記録員として認められました。努力の成果が実った瞬間でした。

記録員は「正確さと速さ」が求められることから、スコアブックの記入の仕方はもちろん、ルールの勉強も並行してやりました。  例えば、ランナー1、2塁のケースで重盗をした場合、2塁走者が3塁でアウトになった時は、1塁走者が2塁へ到達しても記録上は盗塁にはならないのです。ただし、どっちの走者もセーフの場合は、もちろん記録上はどちらの走者にも盗塁の記録はつきます。

試合がある時は、私は1時間ほど前に球場入りし、自分が担当する試合の両チームの選手名を確認します。「サイトウ」にしても斉藤、斎藤、齋藤などがあり、正確を期する意味でも確認しています。大半は前日にプログラムを見て、やっていますけどね。

試合中は審判のジャッジに伴っての判断、自分で判断するケース、その瞬間のプレーを見逃さないように目を凝らしています。しかしながら、判断に迷うことはありますね。そんな時は「記録員はヒットとエラーの判断を迷ったらヒットにするのが無難」と教本に記載され、この言葉には何度か助けられましたよ。

記録の集計には時間がかかり、苦労しました。1日に3試合もあれば、第1試合の集計が第2試合まで時間を要すこともありました。そうすると、やはりミスが出ますよ。集計したチームが逆だったりね。

これまでの経験の中で珍しい記録もありました。TDKの試合で犠牲フライで2打点というものでした。いろいろ調べた結果、犠牲フライの2打点が認められる、ということも確認しました。 このように毎試合、確認と勉強の繰り返しでした。

一番印象に残っている試合は、東京ドームでの都市対抗の公式記録員として携わった最初の試合です。走者1塁の場面で、打球はライト前へ。ワンバウンドなのか捕球したのかは微妙。右翼手はなんのためらいもなく1塁へ送球し、1塁塁審はアウトのコールをしました。書いた記録は9-3のライトゴロ。周囲の人たちからはライトライナーでは、と言われましたが、私自身、右翼手が捕球の瞬間、審判が両手を開いたのを見逃しませんでした。ほとんどの人が打球と選手のプレーに目がとらわれる場面、私は審判のジャッジを見逃しませんでした。

野球の魅力は「チームプレー」に尽きますね。助け合いながらプレーすることが魅力ですよ。これまで数多く試合を見てきましたが、印象に残っている選手は? と尋ねられてもスコアブックに集中している分、選手のプレーまではわかりません。

秋田の野球に関しては、野球協会の中にぜひ記録放送部会を設立してほしいですね。それが将来にわたって、必ずレベルアップにつながると信じています。  これまで野球を通じて、仕事でも家庭でも「チームワーク」と「フェアプレー」の精神で、相手を思いやる気持ちを心掛けてきました。そしていろんなことも学びました。野球って人生そのものですよ。


≪文・写真:ボールパーク秋田編集部≫

~ profile ~

高橋 政記(たかはし せいき)氏
昭和16年生まれ
秋田県秋田市出身