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審判をやろうと思ったきっかけは、「やれ」と言われたからなんですよね。(笑) 高校を卒業後、上京して、27歳の時に秋田に帰ってきたのですが、知り合いから「やってみないか?」という感じで誘っていただき、それに対して、「はい、やります」とすぐに返事をしました。28歳の時でした。 これが審判をやるきっかけでした。

先日、六大学OBで、オリンピック経験もある方が、「国際試合に行くにあたって大切なのは、その国の歴史を知り、文化を知り、野球の歴史を知り、そういうことを全部踏まえたうえで試合に挑む、というのが礼儀であり、マナーであり、選手の持たなければならない気持ちだ。それは審判員にも言えることだ」ということを堂々と話していました。 そして僕自身も中国で開催されるU-12の国際試合出場が決まり、まず聞いたのは国歌でした。 いざ本番になり、呼ばれて出て行って、国際審判員になるきっかけとなった、『胸に手を当てて両国の国家を聞くというシチュエーションに、今実際に自分が立っている』、それはやはり最高の瞬間でした。

この大会で一番大変だったのは、精神的な部分でした。 何回もクレームで監督がベンチから出てくるシーンがあったのですが、そもそも監督は抗議禁止で、抗議をしたら罰金なんです。 なので、日本チームはルールを守って抗議をしませんでした。 僕から見ても、明らかにおかしい判定はいくつもありましたし、監督も「あれはおかしいんじゃないか?」と聞いてくるのですが、それでも抗議には行きませんでした。 それとは逆に、台湾、中国はばんばん抗議に来ました。 しかし僕はどちらの言葉も分からなかったんです。 僕自身の目の前で起こっていたプレーなので、言葉が分からなくても、何に対して抗議しているのかはだいたい分かっていたので、他の審判も呼んで話し合うのですが、他の2人の審判はインドネシア人と中国人だったので、集めたところで話し合いも何もできなかったです。 英語も話せる人もいなかったので、片言の英語を話しても伝わらなかったです。 それでも、話し合いはしないといけないので、とりあえず簡単な英単語を使って何とか話し合いが終わりましたが、それを今度はチーム側に説明に行くのですが、今度はその説明にも納得いかず、火がついてしまい、収拾がつかなくなる…という感じでした。 途中で英語の通訳が出てきましたが、流暢な英語で話されても、それはそれでわからなくて。 日本で試合をするときに運営に困ることは特になかったので、言葉の問題が一番大変なところでした。 日本だったら、自分の判定に自信さえあれば、それを日本語で説明すれば伝わるのでなんとでもなるのですが、国際試合だとそうはいかなかったです。 あとは、日本だと「お茶です」、「お弁当です」と来てくれるのですが、そういったこともなく、球場に置いて行かれてたり、ご飯がなかったりといったこともありました。 どんなことがあろうと、試合はしないといけないので、強い気持ちを持って臨まなければダメだと思いました。 今ある環境はとても恵まれているということにも気付くことができました。

ジャッジに迷うシチュエーションがあったらどうしているんですか?と聞かれることもありますが、今はアウトでもセーフでもルックの時間をもらっているので、迷うことはないですね。 そのルックの間も、一定時間になるように気を付けています。

僕にとって審判とは、自分の軸となっているものですね。 週末に審判をして、また月曜日が始まる…いう感じで生活の一部となっています。 僕にとって野球とは、人の生きがいに立てるスポーツです。 僕は一度野球から離れたことがあるのですが、他のスポーツと比べると野球の奥深さはやはり違いました。 いろいろな試合に出ていく中で、野球に対する考え方や感情も、自分自身変わってきていると思います。 目標もどんどんステップアップしていっています。

審判のスキルを底上げしたいのももちろんですが、野球そのものをもっと普及させたいと思っています。 アフリカでの野球の普及活動に力を入れている方が周りにいるので、そこにも協力しています。 もしかしたらアフリカが、将来、WBCやオリンピックで日本を脅かす存在になるかもしれませんね。



≪文・写真:ボールパーク秋田編集部≫

~ profile ~

三浦 和幸(みうら かずゆき)氏
昭和48年生まれ
秋田県秋田市出身