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 「一億円あげるからもう一度高校時代に戻ってみない?と言われても絶対断りますよ」。
 当時は、水を飲むな、肩を冷やすな、厳しい練習と上下関係、理不尽なことが当たり前だった時代、偽りのない本音だろう。

小・中学生時代 
 本格的に野球を始めたのは小学5年生。福谷クレンズに入団した。
 最初のポジションは三塁手。だが、ボールが速すぎて送球を一塁手が捕球できず、一週間で投手に転向。 それからは投手一筋の野球人生となる。
 その後、三好北中学でも軟式野球部で、速球投手として活躍した。 中学3年の最後の大会は惜しくも地区ベスト4で敗退したが、 負けた翌日から東邦、中京大中京、享栄、愛工大名電などの名立たる強豪校から勧誘がきていた。 本人はどこでも良かったが、親から「全寮制でいろいろな面で厳しい愛工大名電に行きなさい」 と言われ愛工大名電に進学することを決めた。

愛工大名電 
 入学後すぐに登板の機会が与えられた。4月3日、三重高校と練習試合で初登板、初勝利。 試合直後にウイニングボールを手渡されたシーンは今でも強烈に記憶に残っているという。
 厳しいことは覚悟のうえの入部だったが、その厳しさは「想像をはるかに超える厳しさでした」。 練習も厳しかったが、それ以上に寮生活と上下関係が厳しかった。 「一年生なんてゴミ扱いでした(笑)、逃げ出す人もいるため寮の周囲は有刺鉄線が張られていましたよ」。
 全体練習の休みは3か月に1度程度、ゴールデンウイークもお盆休みも無く、 正月休みが少しあるだけで年間休日は約10日間だったそうだ。 ただ、自炊の全寮制ゆえに炊事当番制があり、大体12日に1度の割り当てになっていた。 その日は全体練習には参加せず、夕食の支度を任される。 「その日は練習をしなくてもいいので、当番の日がめちゃくちゃ楽しみでした(笑)」。

甲子園出場 
 強豪ひしめく愛知県で甲子園出場は3年間で1度だけ、高校2年の春に第5回選抜高等学校野球大会に出場した。 開会式直後に監督から準々決勝での先発と、同時にスケールの大きな投手に育てるため入学直後から変化球を投げる ことを禁じられていたが、突然、変化球も投げられるように準備しておくように命じられた。 それからは毎日、カーブとフォークボールの練習をした。 チームは1回戦、丸亀商業(香川)に8対5、2回戦は佐賀商業(佐賀)に7対6で勝ち、いよいよ準々決勝、 相手は田口竜二投手(元南海ホークス、現福岡ソフトバンクホークス)や 田中幸雄選手(元日本ハムファイターズ、現北海道日本ハムファイターズ)がいた都城(宮崎)だった。 先発を任され、背番号「11」を付けて初めて上がった甲子園球場のマウンド。 最初に気づいたのはファウルグラウンドの広さだった。 「ワイルドピッチでランナーが2つ進塁するかも…」、結局、フォークボールはコントロールに不安があり、 ストレートとカーブで投球を組み立てた。試合は2対3で惜敗したが、その試合でのストレートの球速は144kmを記録していた。
 「甲子園は天国にいるみたいな時間でした」。 場所の話ではなく、大会期間中は練習時間も短く、練習も楽で自分の時間も持てたからだった。

もう一度甲子園に 
 選抜大会での好投が評価され、その後の大会から背番号「1」をもらった。 ただ、この頃から順風満帆だった野球人生に暗雲が立ち込めてきた。ルーズショルダーによる肩痛に悩まされる日々が続いた。 肩が治らず、2年生の夏はベンチ外となり、秋も本来の投球をすることができなかった。
 それでも、治療やトレーニングを続けながら3年生の夏は”エース”として大会に臨んだ。 準々決勝で享栄を4対2、準決勝で中京を5対4で退け、決勝戦は東邦と対戦。 当時は健康管理日などな連戦が当たり前の時代。 2回戦から一人で投げ抜き、決勝戦は7戦目だった。 「決勝戦の時はもう体力が残っていなかったですね。それでも勝ちたかった…」。 試合は4対8で敗退し、高校野球が終わった。
 その後の進路は、プロ球団からのドラフト外での入団の打診や関東、関西の大学からの入学の勧誘を受けたが、 愛知大学野球連盟春季、秋季リーグ4連覇、明治神宮大会準優勝など、地元愛知の強豪大学である愛知工業大学への進学を決めた。 「地元に日本一を狙えるチームがあるのにわざわざ遠くに行くこともないと思いました」。 地元に残り、高校野球で果たせなかった日本一を目指すことにした。

愛知工業大学 
 入学直後からベンチ入りし、西崎幸広投手(元日本ハムファイターズ)を擁し、秋の明治神宮大会で優勝。 登板機会はなかったが日本一の場にいることができた。 2年からは”エース”として活躍し、3年の春季リーグを制し大学選手権に出場したが、初戦で東北福祉大に0対1で敗退。 「当時の東北福祉大のメンバーはすごかったですよ。佐々木主浩投手、上岡良一投手、矢野燿大捕手、大塚光二選手、 金本知憲選手などがいて、うちの試合には上岡投手が先発して多分ヒットは2本か3本だけだったと思います」。
 最終学年を迎え、「もう一度、日本一」を目指したが肩痛が再発。 結局、4年時には1試合も登板することなく大学野球が終わった。

苦悩の日々 
 治らない肩と進路の選択。この時期が野球をしていて一番苦しかった。 肩痛を知っていてもオファーをくれる社会人の硬式、軟式チームもあった。 チームメートは「肩を治して一緒に社会人で野球をやろうぜ」、「野球を辞めたらもったいないよ」などと声をかけてくれていた。 自身も小学生からずっと続けてきた野球、野球をすることが”義務”だと思っていた。
 そんな時に先輩から「野球なんて辞めたらいいじゃん」。この言葉に救われたという。 初めて”野球をやらない”という選択肢がうまれた。「肩の荷が下りた感じがしましたね」。
 結局、野球を辞める決断をし、オファーをもらったチームには断りをいれ、一般学生と同じく東海理化の採用試験を受けた。 時代はバブル、どの企業も数多くの人材を求めていた。 簡単に入社できると考えていたが、高校、大学と野球漬けで勉強をしたことなどほとんどなかった。 学科試験を終え「ちょっとヤバいと思いました(笑)」。続く、面接試験。面接官は野球部の関係者で高校、大学での活躍を知っていた。 「福田君、うちで野球を続けてくれたら即合格」と言われた。 野球を辞める決断をしていたものの「とにかく就職したかったので、”ハイ”って応えちゃいました(笑)」。 社会人チームで野球を続けることになった。

社会人として 
 東海理化で野球を続けることにしたが、同時に野球は5年と決めていたという。 肩痛も完治せず、選手として2年、コーチとして3年野球部に在籍し引退、社業に専念することになる。
 「野球もやりながら、ちゃんと仕事もしたかったです」。最初の配属は品質管理。 野球をやりながら財務や製品知識なども覚えられ、製品の検査、クレーム対応などの実務もこなした。 野球を辞めてからは実家のある豊田工場へ転勤となり、工場管理を任され、国家資格を含む多くの資格を得た。 その後に営業職に転身、横浜営業所の勤務となる。
 野球を通じて得たものは”人脈”と言う。特に高校、大学の先輩や後輩、当時は敵だった他チームの選手など、 「野球界のつながりはすごいと思います。自動車メーカーへの営業を希望した際には打合せの機会をつくってもらい、 接待や会食の際には場所選びなどのセッティングもしてくれた。数多くの場面でいろんな方々が協力してくれました」。 それも自身の人望があったからこそだと思う。

野球が教えてくれたこと 
 「あの時代を耐え抜いてきたので、どんなことがあっても頑張ることができましたね。 あれ以上の理不尽なことはこれまでも、この先もないと思いますよ(笑)」。 皮肉にも高校時代の理不尽なことに耐えられた自信が今に活きている。



 <編集後記> 
 新工場竣工等の忙しい時期でも快く取材に応じてくださり、お話を伺っていて、芯が強く、豪快な人という印象をうけました。 秋田発祥の500歳野球にも興味があるようで、ぜひこの秋の全県500歳野球大会にも投手として出場していただきたいと思います。

~ profile ~

福田 一成 (ふくた かずなり)、1967年度生まれ
愛工大名電高 ~ 愛知工業大 ~ 東海理化、投手 右投右打
2022年11月1日付で株式会社東海理化トウホク代表取締役社長に就任、2023年2月から横手市在住
趣味はオンラインゲーム、アニメ鑑賞、ゴルフ

≪文・写真: ボールパーク秋田編集部≫ ≪取材協力: 秋田銀行横手支店≫