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小学校低学年の頃、遊びと言えば田んぼでの三角ベースだった。その延長線上で、4年生から野球部に入った。叔父が秋田商高の野球部員だったことも影響していた。

当時の弁当箱の模様は「長嶋茂雄」。背番号3の大ファンだった。最初に3塁を守ったことも、とにかく長嶋に憧れてのことだった。

八郎潟地区は、野球に対して熱狂的な土地柄。練習には監督のほか、近所のおじさんや父兄など、とにかく多くの「指導者」に“恵まれた”と振り返る。

八郎潟中へ進んでからは、厳しい練習が待ち受けていた。厳しさのあまり、入学当時10数人いた部員は、わずか4人まで減った。
3年生になってから捕手が不在だったことから、内野手から捕手へコンバートされた。3年夏の地区大会では、2年生投手をリードして、見事に優勝し、全県出場を果たした。しかし、2回戦で本荘南に敗れた。

全県大会での練習が当時の秋田市立(現・秋田中央)のグラウンドだったこともあり、当時の塚田丈也監督が小野の練習する姿を見て「うちの学校にこないか」と声を掛けてくれた。しかし、小野の志望校は、テレビで見た早慶戦での早大のユニホームだった。 そして、「早大へ進むのであれば、秋田高しかない」と、猛勉強した。が、「野球のようにはうまくいかなかった。成績も思うように伸びず、結局、諦めて市立への進学を決めました」(笑)。

6月中旬。夏の県大会を見据えた強化合宿にはOBの戸部良一をはじめ、多くの先輩がグラウンドに駆け付けた。そしてノックの嵐に肉体的には限界ぎりぎり。そして、ついに体が悲鳴を上げた。 合宿後半でふくらはぎの肉離れを起こして、夏の大会直前に戦線離脱。さすがに悔しさが募った。夏休みの厳しい練習も、この悔しさがあったからこそ、耐えることができた。

当時は「泳ぐな」「水は飲むな」という、なんら根拠もなく、それを守らせた時代。「賢い仲間は、水を隠し持ったりして飲んでいた。自分も、いろんなところに隠して飲んでいましたよ」(笑)。というから、小野も賢かったのだろう。

高校野球に携わった3年間、塚田監督の影響をもろに受けた、という。
「人への思いやり」「人に迷惑をかけない」という2点を強調して選手を指導されたという。当時、塚田監督は若いこともあって、練習では先頭を切って走り、打撃練習では強烈な打球を放っては、選手を驚かせていた。

高校最後の夏。初戦で五城目にまさかのサヨナラ負けを喫した。さすがにショックだった。
「初戦の入り方の重要性、精神面の弱さを痛感した試合だった」

高校を卒業してからの進路については、塚田監督からは東洋大への進学を勧められた。しかし、4年間、大学で野球を続ける自信を持てなかった。そのため、OBの戸部をはじめ、市立高OBが在籍していた秋田鉄道管理局(JR秋田)を希望、そして就職した。

高校を卒業した当時の自分は「社会人野球に対するモチベーションの低さ、取組む姿勢に甘さがあったように思う」。
そんな時期、負の連鎖が重なり20代は野球から離れることとなった。国鉄からJRにかわり、JR秋田硬式野球部の発足に際し「一緒にやらないか」と声をかけてもらった。
その言葉を契機に、20代にやり残したものを取り戻すため、また、同じ過ちを繰り返さないように、体づくり、そして練習も真面目に取り組んだ。

実は小野。野球を離れた期間は、ラグビー部に所属していたのだった。
「(体を動かしていたから)足腰は鈍らず、体幹もしっかりしていた。復帰してからは、千秋公園が自分の練習場で、階段を走っては鍛えていた」という。「36歳まで野球ができたことは、千秋公園での練習のおかげかな」と“自画自賛”。

その後の野球人生は、39歳まで秋田中央のコーチ、43歳まではJR秋田のコーチ、46歳からは同社の監督を務めた。監督に就任して小野が一番心掛けたことは、選手個々のスケジュールと時間の管理。JR秋田は企業チームとはいえ、通常の練習が個人練習となることから、連絡を密にするための手段だった。

そしてもうひとつはチームと、選手の目的意識だ。「どうなりたいのか」「どうしたいいのか」ということを、選手と話し合った。だが、コミュニケーションの手段には、苦労した。各選手の職場の違い、仕事のローテーションなどの問題から、その時間は限られていた。したがって、土・日曜日など顔を合わせる機会がある時には積極的に会話をした。

監督として、勝ち負け以外に考えなければならないことがあった。それは、自身が身を引いた後の後継者の育成である。
「JR秋田のコーチから身を引いた時期、これからのチームは平成採用の選手が監督及びスタッフとしてチームを運営するべきと考えていた。せっかく若返ったチームを自分が監督をすることに違和感があった。これからの監督は、若手を起用しよう、と決めていました」。

7年間の監督生活の中で、JR秋田の看板を背負って試合をするにあたり、クラブチームに絶対、負けるわけにはいかなかった。そのことは、選手に、そして自身に言い聞かせてはいた。
ある年だった。くじ運が悪く2回戦でTDKと対戦し、0-9で敗れた。この敗戦を機に「TDKに負けないチームづくり」を目指した。考え方を方向転換した時期であった。しかし、小野が監督を務めた7年間、TDKに勝つことは叶わなかった。
その悔しい思いを晴らしてくれたのが、小野の後を引き継いだ工藤達也だった。小野が自分のことのように喜んだことは、いうまでもない。

今でも記憶に残っているのが、青森県で開催された都市対抗東北大会だ。当時の2次予選は各ブロックに分かれてリーグ戦を実施、その後、勝率上位のチームがトーナメント戦で本戦への出場権を争った。
予選リーグで強豪のJR東日本東北を破った東北マークスとの対戦を前に、小野はビデオで対戦チームの戦いぶりを徹底的に“解剖”した。
そのかいがあったのか、試合は6-1で勝利。その勢いで決勝トーナメントに進出したが、宿敵TDKに敗れ、都市対抗出場の夢は散った。
あと2勝の厚い壁。TDKとの試合も勝つチャンスはあったが、「自分たちの弱さを露呈した試合で、チームの今後の課題が見つかった」と感じた試合だった。
「取れるアウトを確実にアウトにする」。
実に単純明快なことができなかったことで、試合の主導権をにぎることができなかった。小野にとって苦い経験になった試合が、実に勉強になった出来事だった、と述懐する。

秋田の野球については、「秋田で育った力のある選手が、地元の社会人で活躍してくれる環境づくりが課題。それが実現できれば、秋田の社会人野球の活性化につながる」と語る小野は、社会人野球のナイターでの開催を夢見ている。

小野にとって野球とは? という質問には、「いろんなことを教えてくれた『教科書』みたいなものかな。自分が、だらしなかった時代に、野球をすることでいい方向に進むことを気付かせてもらい、軌道修正ができた。これも野球のおかげです」と締めくくった。


≪文・写真:ボールパーク秋田編集部≫

~ profile ~

小野 士(おの おさむ)氏
昭和37年生まれ
秋田県八郎潟町出身
一日市小(現・八郎潟小)-八郎潟中―秋田市立高(現・秋田中央高)
秋田鉄道管理局(現・JR秋田)で選手・コーチ・監督を務める
現在はJABA秋田県野球連盟事務局次長