秋田工、そして男鹿工の監督を30年務めた。そのうち、夏の県大会で秋田代表として甲子園に出場したのは秋田、秋田商、経法大付(現・明桜)、金足農が25回もカウントする。秋田県内では当時、強豪校と呼ばれるチームだ。ある意味、加藤にとって、「不運」な監督時代を過ごした時期だった。
だが、監督としてみれば「特異」も経験をした。高校3年時、夏の大会で敗れ「さあ、あしたから夏休み。思い切り遊べる」と思ったのもつかの間。当時の秋田工野球部部長で県高野連の理事長を務めていた安藤晃(故人)から、「リーグ戦の臨時監督をやれ」という厳命が下った。「頼むからやってほしい」ではなく「やれ」という言葉に、加藤は従わざるを得なかった。
そして、ベンチでの初采配は? 「正直なところ、(監督をやれという指示には)なんで俺が、とがっくりきた。くそ暑い季節に、朝から晩までノック。試合では緊張感はまったくなかったが、思うような采配はできなかった。確か、出したサインは一つも成功しなかった記憶がある。監督って、こんなに難しいものなんだ」と痛感した。
後日談――。加藤が安藤部長に「なんで私に白羽の矢を立てたのか」と、酒席で聞いた時、こんな答えが返ってきた。
「なにより、お前には元気がある。声もでかいし、男ぶりがいいからだ」。安藤からすれば「将来の監督は加藤に」という思いがあったのだろうか。
高校卒業後、秋田市内の会社に勤める傍ら、母校のコーチをして後輩の指導をした。そして昭和54年のある日、安藤部長から「来年から監督をやれ」という、やはり厳命がくだった。加藤いわく「安藤さんの言葉は絶対命令。考えさせてください、なんて言うことはできなかった」と述懐する。
そして翌年、実習助手として母校で採用され、監督生活のスタートを切った。学校に採用されたとはいえ、今度は教職の単位を取る必要があった。秋田大と群馬大の聴講生として7年間、野球と勉強に励んだ時期だった。
監督としてのポリシーは、「秋田工業といえばラグビー学校。しかしながら、野球も強くなりたい」と感じたものの、監督を引き受けた当時は、全県大会にも出場できない低迷期だった。
赴任した当時、まず手掛けたのは選手の勧誘だった。が、野球よりラグビーが知られているだけに、選手も簡単に集まることはなかった。いい選手がきたな、と思っても、全部ラグビー部へ入部するのが常だった。同志社大に進み、サントリーで活躍した土田雅人(土崎中)、明治大に進学して主将を務め日本代表としても活躍した瀬下和夫(羽城中)など、中学時代は野球部の主力を務めた人材だった彼らも、行く先はやはりラグビー部。
監督として「結果」を残したのが、最初に勧誘した選手が、2年になった秋のこと。秋田工としては実に17年ぶりに東北大会に出場した。「翌年の夏に向けて、確かな手ごたえを感じたが…」という加藤だったが、秋の全県大会決勝で敗れていた能代商(現・能代松陽)に敗れ去った。
30年に及ぶ監督を経験したが、「打つチームを」とか「守りのチームを」といった思いでチームづくりはしてこなかった。ただ1点。心に秘めて取り組んできたことは、「子供たちや両親のことを思うと、『対外試合の禁止』や『出場停止』の処分は絶対受けないチームをつくること」。これ以外、何物もなかった。
「このような処分を受けなかったことは、私一人の力ではできないこと。子供たちがよく、私の言うことを聞いてくれた結果だろう。本当に感謝したい」と振り返る。
監督として二つの思い出がある。一つは秋田工時代の話。そして、もう一つが男鹿工時代の話。いずれも東北大会の出場権を得た時のことだが、特に男鹿工のそれは、平成12年秋。男鹿・南秋地区の学校では初めての東北大会への切符を得たことだった。「涙よりも、一層、選手を鼓舞した記憶がある。東北大会で勝つためにね」。
半面、悔しい思いも残っている。昭和60年春、中央地区での敗戦を機に、監督を退いたことだった。「秋田商に大逆転で敗れてのことだったが、あの時は、悔しかったよ」という。
秋田・小野巧、秋田商・三浦第三(故人)、同・小野平、金足農・嶋崎久美、経法大付・鈴木寿宝(現・秋田修英野球部監督)の5人の監督に対しては「意識した」(加藤)。「頭の中は、この5人を潰すことしかなかった。でも、勝てなかった」。そんな加藤だが、嶋﨑にはこんな感謝の言葉を贈っている。「弱小校の男鹿工時代、練習試合を(金足農に)お願いしても一度も断られたことはなかった」と、監督を退いた今でも頭の下がる思いだ、という。
強烈に思い出に残る選手がいる。男鹿工時代に指導した村山雄起だ。高校卒業後は、加藤いわく「東北の工業高校では初めて慶応大に進学した」という村山は高校3年時、主将を務め、チームを引っ張ってきた。慶応進学後、通常は神宮球場で行われる「早慶戦」が、現役野球部員にOBを加えた「オール早慶戦」として、甲子園球場で行われた。村山も憧れのマウンドを踏んだのだが、その出来事を加藤にメールで送った。「4年間、あの慶応のベンチ入りを果たしたこともすごいことだが、彼の言葉には感動したよ」という。その言葉とはこんな内容だった。
「野球の女神が最後の最後に、微笑んでくれた」
甲子園のマウンドを踏めたことを喜ぶ内容だったが、さすがの加藤の目にも涙が浮かんできたという。さらには夏休み、慶応大の野球部員を男鹿まで引き連れ、後輩の指導に当たったことも感動ものだと、述懐する。
監督として実にユニークな策を取ったことがあった。「OBには叱られましたよ」という、実に荒唐無稽な策だった。
昭和56年春の中央地区大会。相手は金足農。9回表を終わって2-2という場面で、その裏、秋田工は1死満塁という、サヨナラ負けのピンチを迎えた。ここで加藤が振るった采配は、こともあろうに外野手の3人を全部、内野に呼び寄せ、守らせたのだった。相手の嶋崎監督もさぞかし、あきれたことだったろう。結末は、無人の外野に打球が飛んでジ・エンド。
30年間におよぶ監督生活で学んだことはーという問いには「人間の和」という答えが返ってきた。「かみ砕いていえば、野球に限らずスポーツをする人間には必ず挫折がある。野球でいえば、『負けた時』『けがをした時』『補欠で試合に出られない時』などなど。そんな時、立ち直らせてくれるのが「仲間」だったり「指導者」だったり、野球にはいろんな融合した和がある。本当に(野球をしたことで)教えられましたね」としみじみと語る。
現在は県野球協会の役職を務める傍ら、母校のOBらで組織する軟式野球チームで野球を楽しんでいる。
もう一度、高校野球の監督は? と水を向けると「自宅は母校にも近いし、うーん。もし、そんな話がきたら悩みますね」と、まんざらでもない様子だ。
県内で高校野球の監督を務めている若手に対しては「たいしたもんだね。本当に良く(野球を)研究している。これからも頑張ってほしい。もちろん甲子園でも、母校に限らず、出場したチームの活躍は祈っています」とエールを送る。
≪文・写真:ボールパーク秋田編集部≫
~ profile ~
加藤 秀夫(かとう ひでお)氏 昭和29年生まれ 秋田県秋田市出身 高校卒業後は秋田市内の民間会社に7年間勤務 その後、秋田工、男鹿工の野球部監督を30年間務める 現在、県野球協会強化副委員長、審判部・資格審査委員など歴任 |