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まだまだ知名度があるとはいえない『準硬式野球』を普及させるために、人生を賭けて活動に取り組んでいる男がいる。27歳という若さで帝京大準硬式野球部の監督を務めるその男は、浅野修平。

寺内小から泉中に進んでからはファーストを守り、ひたむきに野球に取り組むも地区予選の1回戦で敗退。新屋高に進学してからは、3年夏の県大会でチーム初のベスト4に輝いたが、大会前にケガをしてしまったこともあり、浅野自身が活躍することはなかった。「あそこで活躍できていたら、大満足で(野球を)引退できていたかもしれないんですけどね」(笑)。

そして大学進学。「将来のためにアルバイトをしながら、寮ではなくアパート暮らしと決めていました」。だが、その生活を送りながらの『硬式野球』は無理だと感じた。そんなときに出合ったのが『準硬式野球』だった。「ここでなら野球も真剣にできる、と思い、帝京大へ進学を決めました」。結果的には、4年時にキャプテンを任されたものの、全国大会に出場することもなく、大学野球を終えた。

大学卒業後は保険会社に入社し、野球とかけ離れた生活を送っていた。そんなとき、前監督の退任に伴い“帝京大準硬式野球部の監督”の要請が舞い込んだ。基本的に学生主導のチームだが、組織としてしっかりとしたチームを作るためにはトップに立つ人間が必要不可欠だった。前監督からリーダーとしての資質を評価され、白羽の矢が立った。そして15年に就任。今年2月で3年になる。チームは、全日本大学準硬式野球選手権大会の全国大会出場を目指している。

しかし、高校野球の“甲子園”、大学野球の“神宮”、社会人野球の“東京ドーム”という舞台が、準硬式野球にはない。『準硬式野球』では全国大会の舞台は、毎年、開催地が変わるという。

帝京大の準硬式野球部には専用球場がなく、アメリカンフットボール場が練習場。『硬式』であればイレギュラーな場所でも、『準硬式』にとってそれはイレギュラーではないのである。平日の練習は7時50分から全体アップが始まり、9時半~11時に終了する。土・日はリーグ戦や学外の球場を借りてのオープン戦や練習が主流。部員は100人を超える。監督としての指導法は「部員たちが安心して歩いてこられるように線路を作り、基本的には羊飼いのように後ろから見守ります。様子がおかしい、と思ったらすぐに線路を修復します」。さらに、「なるべく叱ることもしないですね」。叱ることによって選手が委縮し、コミュニケーションが遮断されて、伝えたいことが伝わらなくなるからだ、という。

帝京大準硬式野球部の監督の他に、社会人野球の企業チームのコーチも務めている浅野は、勤務後にも企業チームの指導、スタッフミーティングなどをこなし、自宅に戻るのは22時過ぎ。それから帝京大の部員たちとSNSでコミュニケーションをとるという、野球漬けの毎日が続く。

野球の普及活動にも力を注いでいる。その一環として、インドネシア遠征を行っている。野球の発展途上国からすると、「日本の野球は憧れなのだ」、という。現地では言葉は通じない、道具もろくに揃っていない。それでも日本の野球を通じて子供から大人までみんなが笑顔になれる。「あの笑顔が忘れられない」。

インドネシアの5チームと東都大学準硬式野球連盟の選抜チームで試合を行った。「インドネシアは球場も手作りだったのですが、原っぱみたいな環境に慣れているせいか、驚いたりはしなかったですし、むしろ得意分野ですよ(笑)野球は別に野球場でなくてもできるので!」

思い起こすと、浅野がここまで野球発展にのめりこむきっかけとなったのは、杉山智広との出会いだった。杉山は日大三高が01年に甲子園で優勝したときの主将で、日大進学後に『準硬式野球』を始めた。甲子園で優勝したときは、レギュラーとして試合に出場できなかったこともあり、“次はレギュラーとして日本一を目指したい。そのためのフィールドは『準硬式野球』だ”と思った、という。そして2年生のときに選手として日本一に輝いた。“その時の喜びや感動を、次は指導者として”との思いから、卒業後は日大のコーチに就任。15年、見事に指導者としてもチームを全国優勝へと導いた。常に『有言実行』。そんな彼を浅野は師と仰いでいる。

その杉山とともに、日大三高OBでインドネシア野球代表の総監督を務めている野中寿人氏の協力を得て、東都大学準硬式野球連盟によるインドネシア遠征を実現させたのだった。

インドネシアでの試合は日本チームの圧勝で終わるが、インドネシアの選手たちのすごさは、試合後にあった。試合が終わるとすぐに野球教室が始まるのだ。“投げ方”や“打ち方”を教わりにくるという。もちろんそれに対しても、きちんと日本人選手たちが指導する。野球教室をやるからには、中途半端、自己満足で終わるものにはしたくなかった。現地での野球教室が終わってからも、選手たち同士に連絡先を交換させ、帰国後もコミュニケーションを取り、SNSを利用し、撮影した動画にコメントをするなどの方法で指導を続けている。また、“突撃野球キャラバン”として現地の小学校、中学校を訪問し、休み時間に野球を教えるプロジェクトも今回、大成功した。

そしてついに、インドネシア青年スポーツ省と東都大学準硬式野球連盟は提携を結び、今後も支援を続けていく約束を交わしている。

帝京大学準硬式野球部から昨年東北楽天イーグルスのドラフト6位指名を受け、プロ入りした鶴田圭祐投手については、「ボールは速かったが、コントロールがひどかったんです」と振り返る。いろいろな場所、角度から投げさせてみて、自分の“ポイント”をみつけさせることに時間を費やしたという。鶴田のドラフト指名、入団は自分のことのようにうれしかったようだ。(※準硬式野球界からは8年ぶりのドラフト指名によるプロ入り)

自身の野球生活を振り返り、「高校3年生のときの準々決勝が一番忘れられない」と言う。対戦相手の秋田南には新チーム結成後、一度も勝ったことがなかった。そこで、球場に向かうバスの中で、部員たちで試合のシミュレーションをした。どこから湧いてくる自信なのかは分からなかったが、誰もが“勝てる”と感じていた、という。すると見事にそのシミュレーション通りに試合が運ばれ、秋田南を下したのだった。監督も“根拠のない自信が芽生えたときは必ず何かある”と感じ、その感覚を信じ、選手主導で試合を進めさせたという。自身はケガで出場こそしていなかったが、「一番印象的だった」という。

浅野は秋田県内をはじめ、雪国の高校に準硬式ボールを寄付している。準硬式ボールは、表面がゴムのため雪上ノックではとても使いやすい、と好評だ。北海道・東北ではあまり浸透していない『準硬式野球』の認知度もアップさせることが狙いだ。

「今の夢は何か、と問われると、『準硬式野球』を発展させると同時に、今、自分たちが野球界に兆しをつくるような活動をしていることを知ってほしいです」と言う。

さらに、恩師である杉山が掲げる目標が、全国大会を“甲子園”で開催することだ。高校で甲子園に出場できなくても、大学で甲子園を目指せるのであれば、かなわなかった甲子園をもう一度、あるいは大学からでも目指すチャンスが生まれ、大学でも野球を続ける志の高い学生が増え、それが野球人口の増加にもつながるのではないか、と思っているという。恩師と共にこの活動にも力を入れていくようだ。

「野球から学んだことは、”野球から学んだことがすべてではない”と感じたことでしょうか」と語る。大学卒業後に就職した会社で、野球界にはない社会の厳しさを教えてもらった。野球界では当たり前のことが、社会に出ると当たり前ではないこともある、ということに気付けたことで、今の浅野があるのだろう。

あなたにとって野球とは? との問いには、「まだまだ自分自身が発展途上なので、その答えをこれから見つけられるよう、努力していきます」と話してくれた。

そして、『準硬式野球』を通じて、地元である秋田の野球界にも貢献していきたいと考えているようだ。


≪文・写真:ボールパーク秋田編集部≫

~ profile ~

浅野 修平(あさの しゅうへい)氏
平成2年生まれ
秋田県秋田市出身
泉中―新屋高―帝京大
現在は帝京大準硬式野球部監督
東都大学準硬式野球連盟理事