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小学生のときから野球を始め、その当時はピッチャー、キャッチャー、ショートを守った。中学校ではピッチャーと内野を守った。 が、小・中では特に優秀な成績を残すことなく終わった。

高校の進学先は、悩んだ末、秋田南に決めた。幼いころから憧れていた『甲子園』へ行くための選択だった。秋田南はその当時まだ甲子園に出場したことはなかったが、夏の県予選で決勝進出するなど着実に力を付けていたこともあり、可能性としてはゼロではないと感じていた。そんな経緯があって、秋田南への進学を決めた。

体は小さかったが球速は誰にも負けなかった。だがノーコン。結局3年夏は、投手としてではなく7番・セカンドとして出場、更に2回戦で敗退という結果に終わった。でも、自分自身にはまだまだ伸びしろを感じていた。しかし、もっと野球を頑張りたいと意気込んでいたものの、テレビで松坂大輔の甲子園での活躍を見て、「全国レベルの投手はこんなにすごいのか。自分には到底無理だ…」と絶望した。「それで野球への情熱が一気に冷めてしまったんです」。

高校卒業後は秋田大に進学し、硬式ではなく軟式野球部に入部して遊び感覚で野球を続けた。初めは楽しくやっていたが、高校時代のがむしゃらに野球を頑張っていた日々を思うと、遊び感覚の野球では、どこか物足りなさがあった。そんなときに、高校時代の先輩や知り合いから、「硬式で一緒にやらないか」と誘いがあり、1年秋から硬式野球部に入部した。2年秋からはエースとして活躍した。体の成長が遅くて悩まされたこともあったが、このころには体も大きくなっていて、コントロールもスピードも抜群だった。「投げても打たれないし、最高の気分でしたよ」(笑)。



 

大学を卒業して、就職先は北都銀行に決まり、誰もがうらやむ安定コース…のはずだったが、入社9カ月で北都銀行を退行することになる。 その理由はやっぱり“野球”だった。入行と同時に社会人野球の秋田王冠クラブで野球を続けていて、投球時、かなりのスピードが出ている手応えはあるが、実際に自分の球速がどれくらい出ているのかは分からずにいた。そんなときに、こまちスタジアムで試合をする機会が訪れた。そして投球後にバックスクリーンを確認すると、表示されていたのは146キロ。「いよいよ体が追い付いてきたなと思ったのと同時に、もっと可能性のあるところで自分自身の力を試してみたい、と思うようになりました」。野球をやっている以上、プロになれないのであればやっている意味がない、と思い続けてきた中で、“プロ”の2文字を強く意識した瞬間だった。 「勝負をかけるなら今しかないと思いました」。

そんな思いを知ってか知らずか、偶然知り合いから、“NOMOクラブ”というクラブができたという新聞記事を渡された。そこに書いていたのは“本気でやる野球”。ここしかない、という思いでトライアウトを受けに行った。自身でも手応えは十分だと感じたし、監督やコーチから「すぐにでも来い」と言われた。挑戦してみたい、という気持ちがより一層濃くなった。そしてついに自分の夢を追うために退行を決意したのだった。

支店のみんなから期待されて、可愛がってもらったにも関わらず、たった数カ月で辞めることになり、心苦しい気持ちもあった。しかし、当時の支店長の渡部均さんは、「頑張れ」と温かく送り出してくれたのだった。「人の温かみを感じ、本当にありがたかったです」。だが、父は最後まで納得はしてくれなかった。それでも、自身の夢、応援してくれる人たちの期待を背負い、秋田から旅立った。

大阪堺市のNOMOベースボールクラブの一員としての生活が始まった。クラブ側で斡旋してくれた会社で朝8時から17時まで勤務し、18時から練習。今までに経験したことのない練習量。時には深夜2時までおよんだ練習は想像以上に過酷だった。「とにかく毎日を必死に生きていました」。「馬よりも走らされました」(笑)。練習の成果もあって、1年目の春から球速は150キロを超えて、メディアに取り上げられることも多くなった。「すごい選手がたくさんいる表舞台で野球をできたことは良かったと思います」。ドラフト候補にも名前があがっていたものの、「3位以下の指名は意味がないし、まだ伸びるからもう1年我慢しろ」と監督から言われ、その年のドラフトにかかることはなかった。

そのあたりから、徐々に体が悲鳴をあげ始めた。肘に違和感を覚え始めたのだった。しかし、球速が落ちることもなかったので、だましだまし投げ続けた。

そして2年目の都市対抗2次予選でのこと。調子は良く、自身も「今日はいける」と確信していた。スカウト陣も大勢いる中で、ボルテージは上がり続けた。ファウルを打ってしつこくねばる打者に対し、渾身の力で投じた1球で、ついに右肘が限界を迎えた。内側靱帯断裂。それからはリハビリの毎日だった。手術後もできる限りの治療をしてもらい、リハビリも続け、投げられるまでに回復はしたものの、完全ではなかった。かといって、野球から離れるという選択肢はなかった。球速は落ちたものの、それでも140キロは出ていた。が、精神的にも肉体的にも、もう限界だった。他の環境で、体を休ませながら野球がしたいと思うようになっていた。NOMOベースボールクラブのスローガンは、『夢をあきらめるな』。皮肉にも夢を諦めないために、NOMOベースボールクラブを離れる決断をした。「周りにあれだけ言って秋田から出てきたのに、帰れるわけがない、という思いもありました」(笑)。

そして次に向かった先が、BCリーグ。入団したのは、石川ミリオンスターズ。1年目は登板機会もほとんどなかったこともあり、いよいよ引退を考え始めた。しかし、ここでも周りに背中を押され、トライアウトを受けに行ったところ、当時の藤田平監督の眼にとまり、福井ミラクルエレファンツへ移籍することとなった。だが、ここではピッチャーとしてではなく、主に内野手として活躍した。このころには、プロへの夢もほぼ諦めていた。「野球の辞め方、線引きの仕方を考えていました」。

2年目はまたピッチャーとしても起用してもらい、オープン戦では数年ぶりにコンディションが最高だった。「ようやく戻ってきた!という感じでした」。しかし、今度は肩に違和感を覚えた。肘をかばって投げ続けたからだろう。「終わった、と思いました」。

3年目。この年を最後にきっぱりと野球を辞めた。29歳のときだった。 最後の試合はピッチャーとして全力投球。「プロで通用するボールではないことも自分でよくわかっていたので、未練はありませんでした」。 言葉通りの完全燃焼だった。最後の試合は、父や弟も球場に来てくれて、最後にマウンドに立つ姿を見せることができてうれしかった。

“プロ”の夢は叶わなかったが、後悔は一切ない。チャレンジしたことで得た仲間たち、決断力、精神的な強さは人生においてかけがえのない財産となった。逆に失ったものは何もないと振り返る。ここまで突っ走らせたのは、まぎれもなく幼いころから抱き続けていた『夢』があったから。限られた人しか進むことができない道を目指して、ただがむしゃらに突き進んだ。だから、野球とは何かと聞かれれば、『夢』。一瞬しかない“今”を後悔のないように生きてきた野球人生だった。


編集後記
プロを目指していたころのギラギラとした顔つきとは違い、穏やかで優しい父親の顔になっていた。今は二人の愛娘と遊んでいる時間が楽しいという。しばらく野球からは離れていたが、今後は、学生野球の指導者資格回復研修会へ参加するとのこと。指導の要請があることを楽しみにしているようだ。そのときはもう一度野球界に新風を巻き起こしてくれるだろう。指導者という立場に代わっても学生と共に『今』を大事に、そして夢の続きを追いかけてほしい。

≪文・写真:ボールパーク秋田編集部≫

~ profile ~

笹村 浩介(ささむら こうすけ)氏
昭和56年生まれ
秋田県秋田市出身