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Q 野球との出合いは?
A 小学生のころ、テレビで見た甲子園(全国高等学校野球選手権大会)での鹿児島樟南と佐賀商の決勝戦(1994年、第76回大会)に感動し、それがきっかけで野球が好きになりました。
中学のころは、野球の応援に行きたい、という理由で吹奏楽部に入り、金足農業高では野球部のマネジャーになりました。
在学中、甲子園には2回出場しました。

Q いままでの活動について教えてください。
A 高校卒業後、一旦、秋田に就職しました。
そのときも、野球に関わる仕事がしたいという思いを持ち続けていて、いろいろ情報収集をしていました。
2年後、仕事を辞めて西宮の野球専門のトレーナーの学校に入りました。
ただ、トレーナーの仕事だけで生活はできないので、さらにエステティシャンの資格をとるために学校に通いました。
なぜエステティシャンかというと、トレーナーとして野球に関わる生活をするために、時間の融通が利く自営業をしようと思ったからです。
その後、秋田でエステサロンを開業し、当時の嶋﨑久美監督にお願いして念願の金農のトレーナーになることができました。
監督が代わったのを機に、トレーナーから退き、今度は資金を貯めて世界一周の旅に行きました。
そこでアフリカ野球に出合い、今はアフリカの野球を支援するための活動を行っています。
具体的には、年に1回の大会を開催するための費用を捻出するため、寄付を募ったり仲間と声をかけて道具を集めたり、ということをしています。

Q 野球発展のために海外での活動をされていますが、きっかけは?
A 海外に行くことになったきっかけは、東日本大震災です。
海外からはたくさんの寄付金や応援のメッセージが寄せられたのをニュースで見て、日本は外国から好意的に思われているというふうに感じました。
私はそれまで、海外に行くたびに日本人であることに誇りが持てなかったのですが、少し見方が変わりました。
それから、日本のことをもっと知りたい、そのために外に出て、そこから日本という国を見てみたいと思うようになりました。
そんなとき、世界一周をした人のブログを見つけて、自分もやってみたいと思って実行したのですが、その途中でアフリカの野球に出合いました。
出発前にひと通り、各国の情報収集をしていたのですが、アフリカについては、日本のNPO法人でアフリカの野球の支援をしている団体があるという情報を得ていました。
それで、現地からそのNPO法人に連絡し、タンザニアで野球を教えている代表を紹介してもらいました。
その時、タンザニアで初めての国内大会が開催されるのでぜひ見に来てください、と誘われました。
私の方もスコアが書けるのでお手伝いしましょうかという話をして、大会のスコアを書きました。初めて見たアフリカの野球は、技術は全然でしたが、心から野球を楽しんでいる姿に強くひきつけられました。
その後も私は世界一周の旅を続けていたのですが、メキシコにいるとき、タンザニアから第2回大会の開催について連絡が入りました。
そこで、第2回大会ではアンダー21の世界大会のアフリカ予選に出るナショナルチームのメンバーを選出すること、ナショナルチームはそのままケニアに行くという説明があり、私にマネジャーとして帯同してほしいと言われました。
少し悩みましたが、こんな経験は一生に一度あるかないかだと思い、引き受けました。
それが今の活動につながっています。

Q アフリカに野球場をつくったと聞きましたが、その経緯は?
A このたび、タンザニアに新しいグラウンドができることになりました。
バックネットがちゃんと張ってあって、ベンチがあって、スコアボードを書くところがあって、・・・というグラウンドです。
今年の秋にできる予定です。
それまでは、国内大会といっても会場はボコボコのグラウンドでした。
NPOや現地の人たちが、みんなで力を合わせて大会を重ねている取り組みを、国が後押ししてくれた形で実現しました。
12月に予定している次大会は、新しいグラウンドで開催することになります。今から楽しみです。

Q 海外(アフリカ)で苦労したことは?
A 海外での生活については、苦労したことはないです。
マネジャーとしては大変なことはいくつかあって、例えば、いつも停電しているので氷がありません。
もちろんコールドスプレーもないので、ボールが当たったりしても冷やすことができないんです。
もっと怖いのは、近くに病院がないことです。
これは深刻ですね。
他には、最初のころは、スコアを書くのが大変でした。
どういうことかというと、ポジションに関係なく全員でボールを取りに行くので、最終的にボールを取ったのが誰なのか、処理したのが誰かわからないんです(笑)。
ユニホームがないので背番号もありません。
それでそういう動きをするので、こんなにスコアを書くのに苦労したことはありませんでした。
今はだいぶ技術が向上して、そんなことはなくなりましたが…。

Q 海外でさまざまな野球を見てきたと思いますが、日本の野球はどうですか?
A 恵まれていると思います。
日本では、野球を知らない人はほぼいないですよね。
子どもたちも、プレーをしたことがなくてもルールは知っていると思います。
学校で野球部に入る前から、お父さんや兄弟とキャッチボールをする機会があったり、テレビでプロ野球を見る機会があったり。
野球に触れる機会はすごく多いと思います。
日本では、道具がないとか指導者がいないとか、聞いたことがありません。
海外の野球を見てきて、日本の当たり前が当たり前じゃないということを感じました。
だからといって、野球に触れる機会が少ない、道具や指導者がいない海外の子どもたちが気の毒ということではありません。
本当に純粋に楽しんで野球をしています。逆に、日本の野球少年たちがそういう気持ちで野球をやっているのかな、と思うところはあります。

Q これからの活動目標を教えてください。
A アフリカ野球でいえば、彼らを日本に連れてきて、日本の野球を生で見せたいです。
彼らに日本の野球の技術でも考え方でも持ち帰ってもらって、いずれは指導者になってほしいです。
いつかは日本人に頼らず自分たちでやっていけるようなしくみをつくることができたらいいな、と思っています。時間はかかると思いますが…。
それと、高校の硬式野球部OBチームによる全国大会、マスターズ甲子園出場も実現させたい目標です。

Q マスターズ甲子園について
A 先日、魁新聞にも掲載していただいた通り、秋田支部を設立したところです。
また甲子園を目指せるということもワクワクしますが、ただ甲子園に行きたいだけではありません。
私がマスターズに期待することは、OBチームと現役の縦のつながりがつくられることや、さらに各年代の横の広がりもできることです。
野球で人とつながり、その中でいろいろな輪ができることで、さまざまな相乗効果が期待できると思います。
実現に向けても、いろんな人の力を合わせて進めていきたいと思っています。

Q 鈴木さんをそこまでさせる野球の魅力はなんですか?
A 今の自分があるのは野球のおかげです。
小さいころからすごくワクワクさせてもらって、そのワクワクが何なのかわからないですけど。
小学生の私も中学生の私も、どの年代の私も、野球に一生懸命な選手の姿を見て感動させられてきました。
私をこんなにもワクワクさせてくれるものは私の人生で野球の他にはないと思います。
それだけでなく、野球は私の生きる原動力になっています。
会社を辞めてトレーナーの学校に入ったり、海外に行ったり。
今も野球に関われていることが私にとっては一番の幸せです。

Q 鈴木さんにとって野球とは?
A 今の自分をつくってくれたもの。野球がなければ今の私はいません。

編集後記
驚くほどの野球愛。最初から最後まで、野球への強い愛にあふれるエピソードが満載だった。野球に対する熱い思いと行動力で、さまざまな人生の転機を乗り越えてきたのだろう。そんなときの判断基準は「野球優先」。取材中の受け答えの言葉にも迷いがなかったのが印象的だった。世界一周で見てきたこと、経験したことをアウトプットする機会を探しているということだったが、ぜひ実現してほしい。


≪文・写真:ボールパーク秋田編集部≫