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Q  野球を始めたきっかけは?
A  幼稚園でサッカーと出合い、サッカー選手になりたかった。
でも、3つ上の兄の影響を受けて、野球をすることになった。
兄とキャッチボールをしたり、学校が終わると近所の空き地で野球をして遊んだことが思い出される。
小学4年でスポ少に入団してからは、現在の社会人野球まで、すっかり野球にはまっている。

Q  秋田での野球歴は?
A  寺内小時代は秋田市の大会で優勝し、全県大会に出場した。
県大会では八郎潟小に敗れ、優勝は逃したが、活躍が認められて中国との交流戦の選抜チームに選ばれた。
その後、泉中に進んだが、当時の泉中は風紀がかなり乱れていて、勝つことはできなかった。
高校進学については、中学校での野球が芳しくもなく、当時、アイスホッケーにはまっていたことから、そっちの道を考えていた。
でも、結局、兄が中央高の野球部に在籍した縁もあり、悩んだ末、中央高野球部の門をたたいた。

Q  当時、高校の指導者は?
A  入学当時は現・県高野連理事長の工藤雅文氏。
入学当初の打撃練習では、ボールの重さに打球を全然前に飛ばすことができなくて苦労したことが思い出される。
3年時には工藤監督から塚田博氏に代わり、私自身も主将に指名された。
3年間野球部に在籍したが、春に初めて県大会に出場した。入学してからは「中央高最弱のチーム」と散々言われてきた中での出場には、うれしさを感じた。
でも、本当に塚田監督の指導は厳しかった。
当然、休日もなし。
塚田監督自身、選手と一緒にプレーしながら指導してくれたのだが、期待に応えたかった半面、厳しさゆえの反発心もあった。
ある意味、チームの結束力につながったが、「甲子園」は遠い存在だった。
塚田監督が就任した当時、「お前ら、このままでは一生、勝てない」ときっぱり言われたときは、さすがにショックだった。
ただ、「厳しい練習についていこう」と心に誓った瞬間でもあった。
3年夏は2回戦で経法大付に敗れ、高校野球にピリオドも打ったが、春の全県大会出場や、勝つ喜びを教えてもらったことに対して、感謝している。

Q  仙台(大学)での野球は?
A  高校を卒業して、秋田に就職して「軟式野球でも」と考えていた。
そんなとき、塚田監督から「県外で力を試したら」と声を掛けてもらった。
また、一番心に響いたのは、監督在任中、私に技術面、私生活面など厳しく指導してくれた工藤監督が、転任していたにもかかわらず、先輩たちの名前を挙げて、大学進学へのアドバイスをしてくれたことだった。
その言葉を励みに青森大と東北学院大のセレクションを受けた。選択は本当に悩んだ。
入学してからは「打倒・福祉」に燃えていたが、東北福祉大の大きな壁を打ち破ることはできなかった。
2年生までは野手として、3年春のキャンプからは投手兼野手としてレギュラーを目指した。
当時の学院大の部員は、1学年10人程度で1年から4年まで同じ練習をしていた。
そのため、入学当初は練習についていくのが、やっとだった。
寮生活も先輩と2名1室で、人間として成長した時期でもあった。

Q  試合や練習での思い出は?
A  思い出されることは、練習で後輩の星孝典(巨人―西武)から「先輩、変化球が全然、曲がりません」と言われたときは、ショックを隠せなかった。
そんなことで、投手に必要なものを模索して練習に励んだものだ。
すごい投球を見せられたのが、常磐大との練習試合で久保田智之(阪神)投手のボールを見た時だ。
「剛速球とは、あのこと」と思う。
その試合では、久保田投手とは比較にならないが、自分でもまあまの投球ができたと思う。
そこで学んだことは「(投手は)スピードではなくてコントロール」という手ごたえだった。
今でこそ野手に魅力を感じているが、このころは自分が主役になれて、打者との駆け引きができる投手に魅力を感じたものだった。
大学野球を総括すれば、結局、福祉大には最後まで勝つことはできなかったが、内容の濃い野球生活を過ごすことができたと思う。

Q  大学卒業後は?
A  仙台銀行に就職してすぐに軟式野球部に入った。
でも、肩を故障したこともあり、2年で退社した。
銀行の空気にも性が合わず、秋田に帰る決心をした。
帰ってからは父の経営する会社に入った。
そして社会人クラブチームの秋田ユーランドクラブからの誘いを受けて、投手として入部したものの、一度壊した肩は元に戻ることはなく、野手への転向を余儀なくされた。
当時を振り返ると「野球を甘く考えていた」。
ふがいないピッチングに、当時の主将からは「ユニホームを返せ」と言われたこともあった。
その後、リーグ戦で選手不足だったことから1塁手として出場し、ホームランを打ったことを契機に、野手として生き残ることができた。

Q  記憶に残る試合は?
A  クラブチームの東北大会準決勝で、水沢駒形倶楽部との対戦だった。
場面は2死3塁。
2-1と1点リードの場面で私は1塁を守っていたが、平凡なゴロをはじいて同点とされ、そこから逆転負けを喫した。
その後、敗者復活戦から勝ち上がり全国大会には出場したものの、敗れた時は試合後、泣き崩れたことを思い出す。
泣いた理由は、今考えると、社会人のクラブチームの野球を、草野球の延長線上と甘く考えていたこと。
そして自分のエラーで負けてしまったこと。
そのエラーも簡単に手で補球しにいった怠慢プレー。
このエラーをきっかけに、人一倍ノックを受けた。
バットも振り込んだ。
「一生懸命やること」、「常に努力すること」の大切さを、身をもって感じさせられた試合で本当に学ぶことが多かった試合となった。
私は敗れて泣いたものの、あの試合、勝って全国大会の出場を決めた駒形倶楽部の選手の一人が泣き崩れていた。
その当時の彼の心境は分からなかったが、自分のチームが何年も全国へ行けず、チーム名もゴールデンリバースに変わり、自分が主将になって初めて全国切符をつかんだ時、うれしさのあまり、泣き崩れた。
その瞬間、駒形倶楽部の選手を思い出した。
「あっ! こんな気持ちだったんだ」

Q  記憶に残っている選手は?
A  やはり東北学院大の星捕手。
プロに行くような選手なので、すごいのは当然だが、自分が見たこともない強肩と補球してから送球までの速さは抜群だった。

Q  今季の目標は?
A  チームとしては、クラブ選手権での全国4強。
昨年は念願の1勝をしたので、今年はベスト4まで勝ち進んでテレビ中継の中での試合をしたい。
テレビに映れば、日頃、応援していただいている方々にも恩返しできると思うので…。
個人としての目標は、現役にこだわって頑張りたい。
まだ若手には負けるわけにはいかないし、負けてはいない、と思うので。
併せて若手の指導・育成にも力を注ぎたい。

Q  感謝している人は?
A  両親には本当に感謝している。
大学を出させてもらったし、今も野球ができる環境をつくってくれている両親には、頭が上がりません。

Q  秋田の野球で思うことは?
A  リトルシニアが充実してきているので、少しずつ全国を相手に試合になるようになってきた、と感じている。
底辺の底上げができれば、子供たちも、指導者も、父兄も、野球に対する考え方も変わり、野球を続ける人が増えるはず。
結果、全国でも通用するチームが出現する。
このことが重要だと思う。
社会人野球については、打つ音など球場にきて五感で感じることが多くあるので、観戦にきてほしい。
プレーも実際に見れば、スピード感など楽しいと思うので球場に足を運んでほしいと願う。

Q  岩見さんにとって野球とは?
A  なくてはならないもの。
野球で苦労して、楽しませてもらって、勉強させてもらって、そして教わって。
「自分そのものですね」。



《編集後記》
野球から距離を置くと物静かな社会人。
赤いユニホームに袖を通した瞬間、アドレナリンが急上昇するスイッチに切り替わる。
自身、「高校から社会人まで、いつも自分が生きる道を探し求めてきた」と言うように、何にでもチャレンジする姿には感服する。
現在所属しているゴールデンリバースのベテランとしてチームをけん引し、若手選手を鼓舞している姿は「チーム愛」を感じる。
部長(父親)と親子で戦う姿には「家族愛」すら感じさせる。
チームの顔として、今後も現役選手にこだわってプレーしてほしいものだ。
そして全国「4強」のテレビ中継を大いに期待する。

≪文・写真:ボールパーク秋田編集部≫


~ profile ~

岩見 正道(いわみ まさみち)氏
秋田県秋田市出身
昭和55年生まれ
泉中―秋田中央高―東北学院大
仙台銀行を退社後は(有)ユニバース勤務