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Q  野球を始めたきっかけは?
A  小学校時代、一番仲の良かった友達が野球部に入ったので、自分も入った。
それと同じ時期に、親と東京ドームに行く機会があって、阪神の新庄選手を見て衝撃を受けたこともきっかけ。

Q  中・高校時代は?
A  中学校での全県出場はなかった。
地区予選で土崎中にスクイズを決められて、1-2で敗れた記憶が残っている。
秋田中央高時代は野手で、1、2年時は塚田博監督、3年時は桑原康成監督の指導を受けた。
3年夏は県大会の決勝まで進んだが、本荘高に1-2で敗れ甲子園を逃した。
9回1死まで1-1の同点だったが…。

Q  大学時代は?
A  中央大の準硬式に絞り、セレクションに参加したが、失敗して、指定校推薦で流通経済大に進学した。
大学ではAチームとBチームを行ったり来たりで、レギュラーになったのは4年時から。
『試合に出たい』一心で、毎日、全体練習が終わってからも室内で練習をした。
また、体が小さい(159センチ)ことから、より目立つようにベンチでは大きな声を出した。
打席では、『より小さく』相手投手に見せるためにかがんで構え、ファウルで粘ることを武器として自分の生きる道を探った。
そのかいあってか、春のリーグ戦での出塁率は4割を超えていた。
ただ、ヤクルトに入団した小川泰弘投手(創価大)には、「まったく歯が立たなかった」(笑)。

Q  大学卒業後は?
A  地元に帰ることを考えていたので、北都銀行に就職を決めた。
硬式から軟式への挑戦でもあった。
銀行の仕事はやりがいがあり、充実していた。
社内で表彰されたこともあった。
自分ではその表彰がすごい名誉なことだと思っていたが、それよりもすごいと感じる出来事があった。
夏の甲子園大会で能代商(現・能代松陽)が県勢として13年ぶりに初戦を突破、マスコミからも大々的に取り上げられていたことだ。
その時に、自分も指導者になって全国に通用するチームをつくりたい、と思うようになった。
ただ、大学を卒業しているとはいえ、今の自分が指導者になるためには、ピースが不足しているとも感じていた。
それを集めるために、茨城ゴールデンゴールズ(GG)のセレクションを受け、合格した。

Q  周囲の反応は?
A  当然、周囲からは反対の声があった。
当時、上司だった伊藤智樹支店長に相談した時は「まじか!」と驚かれたが、最後は「頑張ってこい」と背中を押してくれた。
親には「教員になって、野球の指導をしたい。そして全国で通用するチームをつくりたい。そのための経験の場として欽ちゃん球団に入団することにした」と事後報告をした。

Q  GG時代は?
A  2月のキャンプから参加した。
バイトをしながら野球をする、という果てしなく過酷な野球環境を想像していたが、野球をするのには、最高の環境だった。
ただ、シーズンイン直後の5月、練習試合で大けがをしてしまった。
膝の前十字靱帯(じんたい)損傷で半年余り、入院・リハビリの生活を余儀なくされた。
自分ではこのけがを『けがをした選手の気持ちを理解できるようになる』とポジティブに考えた。
2年目にはクラブ選手権大会で優勝、日本選手権にも出場することができた。
このチームでは本当にいいピースを集めることができた。

Q  GGを退団して、なぜアメリカのトライアウトを受けた?
A  心の中で「最後はアメリカで終える」と決めていた。
仲介業者を通じて挑戦することになった。
GGを12月で退団して、1月にアメリカに渡った。
当地ではトライアウトリーグはウインターリーグとも呼ばれ、1カ月限定のリーグ。
ここでは「ハングリーさ」と「上手にアピール」することを、アメリカ人から学んだ。
アメリカ人の「できない」という言葉を基本的に言わない姿勢にも驚いた。

Q  結果は?
A  リーグをたまたま視察に来ていたオーストリア・ウイーンのチームからオファーがあり「OK」と即答した。
できないと言わない、アメリカ人に感化されたのかな。
そして、一旦、秋田に戻り母校でコーチをしながら日々を過ごし、5月にオーストリアへ行くことになった。
同期生からは「何してんの?」と言われ、高校生からは「頑張って!」という応援をもらって旅立った。

Q  ヨーロッパでの野球で得たことは?
A  自分にとって「分岐点」となるほど、躍進につながった。
背景にはオーストリアのナショナルチームの監督も務めていた、ヴィエナ・ワンダラーズの坂梨広幸監督との出会いだった。
監督から、「お前の打撃では(上のレベルでは)通用しない。将来、指導者になるにしても、お前のレベルを超える選手には、今のままでは指導をすることができないだろ」というぐさりと心に響く言葉を投げかけられた。

Q  その言葉でどんなアクションを?
A  ホームランとは無縁の選手だったが、ホームランを打てる選手を目指した。
監督が斬新だったのは、ボールをとらえるまでのアプローチの仕方だった。
日本では「ヘッドを走らせろ」「最短距離でスイングを」というような指導をされたが、ここでは理論的な指導が行われていた。
その理論とは、慣性の法則、分離、偶力。
例えば、慣性の法則の場合、車で走っていて壁に衝突したとき、搭乗者は進行方向に投げ出されるが、これを打撃に置き換えると車が体、搭乗者が腕となる。
ステップをして、体重移動をした体を足でストップをかける。
これが、いわゆる衝突。
この行動によって慣性の法則が働き、腕を強く振ることができる。
投げることも一緒。
野球も頭を使うことが理解できた(笑)。
ここでも、穴を埋めるべく、ピースが増えた。

Q  ポーランドで監督に就任してから指導で力をいれてきたことは?
A  ヨーロッパでは「走る野球」が重要視されてこなかったことから、走塁に重点を置いた。
盗塁は走者の塁間のタイム、投手から捕手までのタイム、捕手がボールを捕ってから投げて、ベースまで届くタイムなどを計算して、チームへ反映させ意識付けをした。

Q  これまでの野球人生でうれしかったことは?
A  昨シーズン、監督兼選手として采配を振るって、30年ぶりに優勝することができた。
市民やクラブ、選手の家族など多くの人から喜んでもらった。
本当にうれしかった。
ここだけの話。
ポーランドのU15ナショナルチームの監督のオファーもあった。

Q  感謝していることは?
A  どんな状況でも応援してくれた両親には感謝しかない。

Q  渡辺さんにとって野球とは?
A  自分を成長させてくれた場所。
すべてが野球を通じて生かされてきた、と思う。



《編集後記》
将来、「郷土・秋田で高校野球の指導者となり、全国に通用するチームをつくりたい」という夢を持ち、県外、そして海外へ勇躍して、ピースを集めている姿に感銘した。
ポーランドの選手に日本のシートノックを見せたい、と「日本」と「ポーランド」の橋渡しにも力を注ぐ。
彼が目指したジグソーパズルの完成を素直に見届けたい、と思う。
遠く離れているが、異国の地で頑張る秋田県人の奮闘にエールを送りたい。

≪文・写真:ボールパーク秋田編集部≫


~ profile ~

渡辺 龍馬(わたなべ りょうま)氏
秋田県秋田市出身
平成元年生まれ
将軍野中ー秋田中央高ー流通経済大ー北都銀行
北都銀行退社後は、茨城ゴールデンゴールズ―ヴィエナ・ワンダラーズ(オーストリア)ールィブニク・シレジア(ポーランド)
◆Instagram◆
Ryoma Watanabe