menu

第70回都市対抗野球大会(平成11年)に、2度目の派遣審判員として東京ドームのグラウンドに立った。前年は東北審判員としての派遣だったが、その年は日本野球連盟の推薦だった。2年連続で都市対抗の審判を務めたのは、秋田県では初。また、日本連盟の推薦での派遣も、県内では初めてのことだった。「平常心を保ち、自分で納得できるジャッジができた」と、当時を振り返る。

審判員になったきっかけは、1967年(昭和42)、8年間、秋田工業高等専門学校で野球部のコーチを務めていたが、全国大会の切符をかけて戦った決勝でサヨナラ負けを喫した。この試合、「もし勝てば」という約束で、当時の学校長とはこんな言葉を交わしていた。「全国大会に出場できたならば、日本高野連の加盟を考える」というもの。結果的に全国出場も、高野連の加盟も実現できず、結果、コーチを退いた。

しかしその後、「野球への思いは捨てきれなかった」という足利は、1980年に第2種審判員を取得、審判員としてスタートを切った。

閑話休題――。
今となっては「時効」だが、2種合格後の翌年、勉強のために受けたつもりの第1種審判員に合格した。本来は2種に合格してから3年間の実績を積んでからの受験資格だったが、時代が良かったのだろう。トップ成績だったことから、事務局も「ないがしろにはできない」との判断で、特別措置での合格となった。

それから38年。10年前に審判員としては一線を退いたが、6年前からはリトルシニアに関わりを持ち、後輩の指導や育成に携わり、今年、東北リトルシニアの審判部長となった。審判員になった動機として「野球への未練」のほか、もう一つが「甲子園で審判をやりたい」というのも、理由の一つだ。結果的に甲子園には“出場”できなかったが、社会人野球の最高峰のステージである東京ドームのグラウンドに2度立ったことは、最高の思い出となっている。

その都市対抗の思い出として、こんなことがあった。対戦チームは本県のTDKと三菱自動車水島(岡山)だった。同県チームの審判員を務めることに不安を感じた足利は、西大立目永運営委員長に「同県のチームの試合で、同県の審判員が、グラウンドに立っていいものなのか」という質問をぶつけると、「君は日本野球連盟の推薦で来たんだろう」と諭された。このとき「変なジャッジはできない」と心に誓い、緊張した記憶が残っているという。

現在は若手の審判員の「教育係」として、自身が経験したことを基に、指導している。その中で強調していることが、「今の時代は昔と違って、ビデオで試合が撮られている。もし間違ったジャッジをした場合、『勇気をもって訂正』すること」と言い聞かせている。

自身が現役時代、どんな試合でも「平常心で臨む」ことが心掛けた。そして選手から信頼される審判でないと、通用しないという考えが根底にある。一つのジャッジで、その選手の人生を変えてしまうこともある。それだけ重要な役割を担っているのが「審判員」と力説する。

記憶に残っている試合が2試合ある。一つは東京ドームでの都市対抗。9回まで1-2で負けているチームの先頭打者が、左中間への長打を放った。3万5千を超える観衆からは「うわー」という歓声が上がり、セカンドベース上でのクロスプレーの瞬間は、その歓声が静まり返った。そして「アウト」とのコールと同時に再び「うわー」という歓声。あの一瞬の静寂の中、2塁審判への注目度は「審判冥利」に尽きるシーンだった、と回想する。

もう一つの試合が、平成10年の都市対抗秋田県予選でのTDK―秋田銀行の一戦。秋田銀行の打者が放った打球は「フェンスを越えたボールが跳ね返ってきた」と足利には見えた。右手をグルグル回し、本塁打のジャッジをしたのだった。が、すぐさまTDKベンチから「フェンス直撃の2塁打ではないか」という抗議。4人の審判がマウンドに集まり協議したものの、「正確なジャッジは不明」だった。結局、2塁打で再開したものの、「今でもあれは本塁打」と足利は確信しているという。

記憶に残っている選手がいる。1年生ながら甲子園大会では準決勝に進出するほどの活躍を見せた、中川申也投手(経法大付・現明桜)だ。「あれほど(中川と自身の)相性が合った選手は他にはいなかった。彼の投げるタイミングと私の構えるタイミング。さらに、ピンチの場面では、ストライクを投げてくると『やばいな』、と私が感じていると、中川君は絶対、そこには投げてこなかった。こんなことが1試合に4、5回はあった」と語る。

試合で球審は、ベース上の土を払うために「はけ」を持っている。最近の流行は大きめのはけで、当然、回数が少なく土を払うことができる。しかし、プロの審判は大きなはけは使わない、という。その理由が、はけは本来の使用目的のほか、その作業をしているときに「冷戦な自分を取り戻る時間」という意味合いも含まれているというから、うなずける。

もし、野球との関わりが消滅したならば、自分もこの世からいなくなる、と思うほど、野球は生活の一部となっている。野球に関わってきたことで、全国に友達もできたし、健康な生活を送ることができている。「当分は、野球にはお世話になると思うので、これからの人生も野球とともに楽しんでいきたい」



≪文・写真:ボールパーク秋田編集部≫

~ profile ~

足利 一司(あしかが かつじ)氏
昭和22年生まれ
秋田県秋田市出身
秋田県野球協会 審判部常任理事
現在:リトルシニア中学硬式野球協会 東北支部常任理事 兼 審判部部長