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旭北小学校時代は、夏は野球、冬はバスケットボールをやっていた。当時は野球よりバスケットボールの方が強く、5年生では全県で3位、6年生では全県優勝を果たした。当時のメンバーは専修大野球部監督の斎藤正直、元秋田工高ラグビー部監督の黒澤光広、元秋田商高硬式野球部監督の菅原一夫などそうそうたるメンバーがそろっていた。
 山王中入学時は、小学校の時に全国優勝を経験したことから、今度は「野球で頂点を目指そう」と全員が野球部に入部した。当時は、講師で専修大からきたという鬼コーチの下、本当に厳しい練習を課せられた。エース不在の中、結構、強かったと振り返る。  

高校入試を控え、仲間たちの間には「(高校で)甲子園に出たい」、あるいは「ラグビーで花園へ行きたい」と、それぞれの進路を語り合った。そのころ、秋田商高では三浦第三監督が大館商高から自身の母校への就任が決まっていた。秋田工高ラグビー部からの勧誘もあったが、結局、専修大OBの取り巻きからも声を掛けられたこともあって、秋田商高への進学を決めた。

高校へ入学し硬式野球部へ入部したとはいえ、練習は本当に厳しいものがあった。当時、30人の新人部員が3年時の最後まで残ったのはわずか10数名だったことから、その厳しさを想像できるだろう。1年時は加藤肇監督、2年時からは三浦第三監督の下で甲子園を目指した。

3年夏、秋田県予選の決勝で大館商高に10-0で勝った。勝ったとはいえ、それまでの道のりは順風満帆ではなかった。選手の相次ぐ故障や練習の厳しさから、ベンチ入りのほとんどの選手たちが練習をボイコットしたこともあった。チームの主力がそろったのは大会直前だった。
 甲子園切符をつかんだものの、決勝戦の表彰式終了後、三浦監督を胴上げをしようとした時に、監督から「相手の選手の身になってみろ」との言葉でそれは実現されなかった。こんなこともあり、MAXだったテンションは一気に下がった。胴上げをしなかった理由を「大館商の3年生は、三浦監督が大館時代に声を掛けて集めてきた最後の選手たちであった。この子たちと甲子園を目指そうという夢を捨て、秋田商へ赴任した自分への償いだったかもしれない」と想像する。

当時のエースは2年生の高山郁夫。彼の指導をしてもらうために山沖之彦、定岡徹久(後にプロ野球で活躍)を自宅に泊めたこともあった。
 甲子園入りし、抽選の結果、相手は大会7日目に古豪・広島商と決まった。ただし、体調は大阪に入ってから試合までの間は、慣れない暑さに加え長い練習で限界に達していた。
 当時は宿舎でのエアコン禁止で、隠れてエアコンをつけたのを監督に見つかって怒られた記憶もある。
 試合中、球場の中でも「お前ら、声も出ないのか」と叱責されたが、あの球場の広さと暑さの中で声を出すことが相当な体力を要したことも脳裏に残っている。守備位置からベンチに帰ると、2つあった扇風機の陣取り合戦だった。広島商の選手はユニホームの着方から違い、大舞台に慣れている印象で、それにのまれたわけではないが結果は2-5で敗れた。

専修大時代は1年からマネジャーで監督の洗濯や車の運転を務める傍ら、東都大学リーグ連盟の仕事もこなした。3年時には2千5百万円の予算管理、交通手段や宿の手配―。プロ野球や社会人野球などの関係者との会談など、多少なりとも大学時代に会社経営のすべてを経験できたことは今に生かされている。
連盟の仕事を手伝ったことで日米大学野球のマネジャーにも抜擢された。その日米野球では思い出の地、甲子園の土を再び踏んだことも思い出として残っている。

 

卒業時、就職先を決めるにあたって、様々な企業から誘いがあった。その中で、西武流通グループへ入社した。その年の7月、秋田へ西武が出店することが決まり、転勤で秋田へ戻ることになり、「秋田西武1期生」として3年間過ごした。その後、退職し、父親が経営する会社(松紀)を手伝うことになる。しかし、右も左も分からず日本一の大田市場へ2年間の修行期間を経て、戻ってきた。

経営者となった今、社員に求めていることは目を掛けて欲しければ「(実績をあげるとか)目立つような人間になれ」。仕事も野球同様にチームワークで乗り切っている。野球は時代とともにスタイル、ノウハウが変化する。しかし基本がすべて。会社経営との共通項は数多くある。

言葉は悪いが監督たる人間は博打っ気がないとダメ。勝負師でないと野球の監督は務まらない(思い切った采配をふるうことはできない)。全国で通用する野球をするためには、送りバントで1死二塁ではなく、もっと攻撃的な仕掛けをしないといけない。
 一塁走者のリードオフにしても、どの位置にどのようにリードするか、三振にしても倒れるだけ振り切ることなど指導者を含めて、もっともっと指導・練習をしてユニホーム姿が大きく見えるように堂々としてほしいものだ。
 秋田で一番心配なのは少子化によるチーム数の減少。それに伴い、技術レベルの低下を危惧している。われわれ秋田に住む人間として、大きな課題と感じている。

野球とは? 結論がないからあんまり好きではない。追及するほど奥深いし、難しい。でも、どんどん仕掛けてほしいと思う。何年も野球から離れているが、下手に野球を知っているだけに気になってしょうがない。 秋田から全国に通用するチームの育成を期待している。


編集後記
人には表の顔と裏の顔があるように、野球をあんまり好きではないと言いながらも、実は本当は「野球が好きなんだなぁ」と感じる。自身、捕手だったこともあり、選手の個性、特徴、戦況などを見る観点が一般の野球好きな人とは違う。従業員350名を束ねる社長ならではの見方なのだろう。

≪文・写真:ボールパーク秋田編集部≫

~ profile ~

佐藤 文信(さとう ふみのぶ)氏
昭和36年生まれ
秋田県秋田市出身